心臓にすら爪を立て


「お待ちしておりました、苗字さん」

「…お久しぶりですね、草壁さん」

床から天井、装飾品に至るまで日本家屋そのものの造りに何となく心が落ち着くように感じるのは身体を巡る日本人の血の所為か。カコン、と鹿威しの音が何処からか聞こえてくる。
これが地下深くに造られたアジトの一つであるとは内装を見ただけでは判断できないだろう。群れる事を極端に嫌う此処の主の所為で、滅多な事がない限り部外者は足を踏み入れない。こんなに広いアジトでも、今居るのは主である雲雀とその側近の部下である草壁の2人だけだろう。例え息のかかった部下であろうとも、彼の縄張りに居て良い人数は限られている。その徹底した群れを嫌う姿勢には恐れ入る。
雲雀はボンゴレとは別に風紀財団という組織をつくり、草壁とその部下たちは彼を筆頭に匣の研究に日々勤しんでいる。任務において回収した匣とリングは主に彼らに届けられ、その謎の解明に向けて役立てられている。
今回名前が単身日本へと来日したのは、先の任務で回収した匣とリングを届けにきたからではない。草壁に案内されるがまま彼の後ろを歩く名前の傍には居る筈の存在が居なかった。いつも彼女の傍に居るマーモンは珍しく私用で席を外している。
気に入っている駄菓子屋への再訪と最近のマイブームである羊羹の購入、それがマーモンの目的だ。そんな理由がメインで他ファミリーが命を懸けて取り合っている匣とリングが序でなどと言えるのは名前くらいだろう。彼女にとっての最優先事項は、いつだってマーモンに関する事だけだ。
本来ならば厳重な管理の元財団へと届けられなくてはならない代物を名前がこうして単身持ち運んでくる事を許されるのも、彼女が所属する組織の名故だ。人格に難あり、残虐且つ手の付けられない程の無法者集団のヴァリアーも、その実績からマフィア界においては一目置かれる存在である。少数精鋭部隊、任務の成功率90%超えの実力派集団からそれを奪おうとするには中々骨が折れる。

「雲雀はこの奥の間です」

「私は匣とリングを持って来ただけです。草壁さんにお渡しするだけじゃ駄目なんですか?」

「…恭さんからの指示です」

ぴたりと歩みを止め、身体を横にずらして道を開けた草壁を名前は訝しげに見上げる。名前としてはアポイントを取った相手である草壁に渡せば終わりだろうと思っていただけに、雲雀と面会するというのは聊か納得が出来ないでいた。
戦闘狂の彼に何度か付き合わされた事はあるが、どれも思い返したい過去ではない。雲雀がこのアジトに荒くれ者集団であるヴァリアーに所属する名前を入れる事を許可しているのも彼女が良い暇潰しの道具になり、他の幹部と違って言葉を弁えているからに過ぎない。

「やあ」

「…お元気そうで何よりです」

「君もね」

草壁が入ってくる気配はない。諦めたように深い息を吐いて、名前はそっと襖を閉めた。2人で話し合うには広すぎる空間だ。浅葱鼠の着流しを纏った雲雀は頬杖をつきながら名前を迎え入れた。一歩踏み出すと足元から香る、畳のい草の匂い。
てっきりトンファーの一つや二つ飛んでくるのかと警戒していた名前は雲雀のその態度に拍子抜けしたように肩の力を少しだけ抜いた。露骨なその様子に雲雀は愉しげに瞳を揺らす。

「今日は保護者の赤ん坊は居ないんだね」

「…ちょっと、私用で」

「ふうん。ま、その方が都合はいいんだけどね」

「雲雀さん、何を──」

「名前、こっちにおいでよ」

有無を言わせぬ物言いに、名前は言葉を詰まらせる。追い打ちを掛けるように、雲雀は彼女が手に持つそれに視線を向け、それを届けに来たのだろうと暗に問う。出来れば彼の間合いに安易に入りたくはないのだが、こうなっては仕方あるまい。敵意のないように見せてはいるが、その好戦的に輝く瞳の色は隠しきれていない。──尤も、彼には隠す気など更々ないのだろうが。
いつ牙を剥いて獲物を狩ろうと襲い掛かってくるか痴れないその様は名前を酷く疲弊させた。名前に向かって伸ばされた手には当然ながら武器は握られていない。お互いの手が届く範囲まで近寄った名前はその手に彼が望む物を差し出した。

「随分と警戒しているようだね」

「それはまあ、何度か痛い目を見ていますし」

「捕食者を前にした小動物らしい、良い心がけだよ」

ヴァリアーに身を置く名前を小動物などという無縁の生き物に例えるのは雲雀くらいのものだ。すっかり彼の物言いに慣れてしまった名前は今更言及する気も起きない。
ぼとりと雲雀の手から渡した筈の匣とリングの入った袋が彼の意思によって落とされる。その手が名前のネクタイを捉え、乱暴に掴み寄せた。絞まる首元に気を取られて反応の出来ない名前を薄く笑い、彼女の耳元に唇を寄せた雲雀がその白い耳朶に容赦なく歯を立てる。「いっ、!」思わず漏らした単音にくつくつと喉を鳴らし、低い声で言った。

「殺しはしないから安心するといい」

その言葉の意味を理解するより早く、リングを付けた雲雀がその指に炎を灯す。そしていつの間にか彼の手に握られている野球ボール程の白い球体に炎を注入すると、それを喰った球体が膨張し、あっという間に名前を飲み込んだ。
透明な膜に飲み込まれた名前は次の瞬間、大きく咽ながら喀血する。呼吸すら許されない激しい痛みと覚えのある喪失感が名前を蝕む。口内に広がる鉄の味を噛み締め、立つことすら困難な名前はその場に無様にも倒れ込んだ。ひゅう、と僅かに漏れる呼吸音。異様に凹んだ名前の腹部は、ある筈のものが消失していた。
マーモンによって創られ、保たれている筈の内臓の突然の消失。雲雀の造ったこの球体が幻術を遮断している。それに気付くのに然程の時間は要さなかった。
畳を濡らす赤を見ても、雲雀は一切動じない。「…来たね」そして現れたその小さな存在を目にしても、全ては彼の想定の範囲内だ。

「名前!!」

「やあ霧の赤ん坊」

名前を包む球体に触れると、それはあっという間に崩れ落ちた。「強度もまだまだだね」手の中で使い物にならなくなったそれを見て、実用性には程遠いと雲雀は小さく息を吐いた。
解放された名前に近寄り、マーモンは彼女の名を呼ぶ。「ま、…もちゃ」朦朧とする意識の中でもそれに応えようとする名前は何とも殊勝な事だ。内臓が戻り幾分か呼吸が軽くなった意識のない彼女の頬に触れ、マーモンは小さな身体を事の元凶である雲雀に向ける。

「雲雀恭弥、一体どういうことだい」

ぞわりと背筋を這うような殺気に、当の雲雀はどこか愉しそうに嗤う。
使い物にならなくなった球体をマーモンの足もとに放り「見ての通り、実験に協力してもらったんだよ」と彼は答えた。協力と言っても、名前は何も知らないまま雲雀の実験に付き合わされたのだからそこに彼女の意思はなく協力などとはとても言えたものではない。

「その球体は、一時的にあらゆるものを遮断する」

勿論幻術もね、と付け加え、しかしそれがまだ試作段階である事、動物実験を目前に控えた時にちょうど名前が来日すると聞いて彼女を被験者にすると決めた事、それに伴いマーモンの口座に事前に多額の金額を振り込んでおいた事を雲雀は事も何気にマーモンに告げた。
雲雀は幻術使いが個人的に嫌いだ。その原因を作ったのは六道骸に他ならないが、幻術という抗えないモノを克服し、天狗になっている術士を屈服させる為に彼はこの分野の研究について並々ならぬ執念と努力を積み重ねてきた。その集大成がこの球体という訳だ。通信機器などの電波も、幻術も通さない絶対的な無の空間。それを創り出す事が出来れば、後は簡単、自分に刃向ってきた事を後悔するくらいに咬み殺してやればいい。全ては過去に六道骸から受けた屈辱が雲雀をここまで動かしている。

「データは取れたからね。赤ん坊、もう帰っていいよ」

「ム。名前をどうする気だい」

「そこに寝かせておくだけでいいなら有り難くそうするよ」

殺す気はないと言っていた通り、雲雀が欲しかったのは名前の命ではなく実験のデータだ。それが得られた今、意識のない名前に最低限の医療措置をすると暗に雲雀は告げている。不本意ながらも此処とボンゴレのアジト内を熟知しているのはマーモンではなく雲雀だ。内臓が戻ったとは言え、一時的にでも死の淵を彷徨った彼女を放っておく事が最善と言える訳がない。
ぐったりとした名前を着流しが汚れる事も構わず雲雀は抱き上げる。口元に着いた乾きかけの血を指で拭い、前髪を払った。

「雲雀恭弥。この子を好きにしていいのは僕だけだよ」

「僕は僕の好きなようにするだけだよ。誰の指図も受けない」

血の気の失せた頬は体温が低く、まるで死んでいるかのようだ。
弱り切った名前の命がどうなろうと雲雀は知った事ではなかったが、今もこうして背中に突き刺さる程の殺気を放つ主には興味があった。
アルコバレーノと畏れられた赤子が、たった一人の人間にこうも執着を見せる。運が良ければ拳を交える機会が訪れるかもしれない。苗字名前はその餌としては十分な存在だった。だから、「まだ死んでもらっては困るんだ」そう言って胸の内に獣を飼う男は嫣然と微笑む。

18.09.27
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