染まらないくちびる


「アルコバレーノの風と申します」

お会いするのは初めてですよね、と悠然とした態度で軽くお辞儀をした優男はにこりと名前に笑いかけた。
アルコバレーノと聞いてそれを知らぬ者は裏社会において一人も居ないだろう。嘗ては呪われた赤ん坊と呼ばれ、今から10年以上前に現ボンゴレ10代目とその守護者、ヴァリアー、他ファミリーまで巻き込んで行われたという虹の代理戦争ににおいてその呪いを見事に解き、“成長”を許され世界最強の7人と謳われたうちの1人。
名前がマーモンとボンゴレ総本部にいるリボーンを除くアルコバレーノとこうして相見えるのはこれが初めての事だった。理由はただ単に接点がなかったからだ。マーモンは基本的にアルコバレーノの面々は嫌いだと公言しており、そんなマーモンと常に行動を共にしていれば会う機会がないのは当然の事、それに加えてリボーンとは取分け険悪な仲で、これでは接点など作りようがない。
アルコバレーノは只の赤の他人が運悪く揃って赤ん坊にされただけの関係で一括りにされてはいるが仲良し集団では決してない、と名前はマーモンから聞き及んでいた。なのでこうしてマーモンを訪ねてきたであろう風が、名前にとっては不思議でならなかった。
何か緊急事態でもあったのかと一瞬考えが過るも、目の前の優男の態度を見るからにその可能性は極めて低い。
なら、何故態々ヴァリアー本部まで出向いてきたというのか。突然ゆらりと窓から入ってきた辺りセキュリティー面に問題があると思われるが、どれだけ強固にしようとそれすら易々と掻い潜れるくらいの実力者であるのは確かであった。

「苗字名前と申します。生憎とマーモンは預金通帳の記帳で外出しており不在なのですが」

「バイパーも相変わらずのようですね。ただ私はバイパーではなく貴女に会いに来ましたので」

何も問題ないですよ、と平然と言い放った風に名前は返す言葉もなく瞠目するしかなかった。身に纏った赤い拳法服の袖を揺らしながらゆっくりと風は名前に歩み寄る。名前があっさりと間合いに入る事を許すのは、単に風から明確な殺意が感じられないからだ。
顔立ちはボンゴレの雲の守護者に酷似しているものの、その切れ長の瞳は酷く穏やかな色を含んでいる。纏う雰囲気は今も従容たるまま、何者も寄せ付けず視界に入れば食い殺そうとする獣のようなあの守護者とは似て非なるもの。キキッ、と彼の頭に乗る白い猿が小さく鳴いた。

「よく鍛練されているようですね」

「何を、」

節榑立った男性特有の手が名前の手を取り無遠慮に指先が這う。マメが出来ては潰れを幾度も繰り返した皮膚の固い部分を指先が滑るのが擽ったい。手首に風の指先が触れた途端、驚く程の力で引き寄せられ、名前は成す術なく体勢を崩す。「名前さん」空いている手が顎を掬い上げ、愉しそうに笑う瞳と目が合った。

「私と手合せして頂けませんか」

刹那、腸を抉り出されるような感覚が体中を蝕んだ。顎を下から蹴り上げようとしたそれを躱し、名前は思い切り飛び退いた。頬を一筋の汗が伝う。掌に滲んだ汗を握って誤魔化し、恐ろしいまでの殺気にごくりと固唾を呑んだ。この這い寄るような死の感覚は久しぶりだった。
表情を強張らせる名前に対し、低姿勢で拳を前に出し戦闘態勢に入った風は浮かべる笑みを崩さない。

「よく避けましたね」

「一体如何いうおつもりですか」

「バイパーがお金以外に興味を持ったという話を風の噂で聞いたので、つい嬉しくて」

──少しだけ、様子を見に

ちょっかいを出しに、の間違いだろうとホルスターから抜いた拳銃の安全装置を外しながら名前は思う。
彼の頭に乗った猿が飛び降りたのと同時に、一気に風が間合いを詰めてきた。繰り出される拳を受け止めると、痺れるような痛みが走る。なんて重さだと名前は奥歯を噛み締め、風の脇腹を蹴り上げた。名前の身体の動きに合わせて自分の身体を流した風はほぼノーダメージだ。
手応えのない感覚にすぐに体勢を整えた名前は拳銃を放り投げ隠しナイフを構えた。両手の指の間にナイフを挟み、間髪容れず風目掛けて投げる。どんなに本数が多くとも風にとって単調なその軌道を読む事はさほど難しくない。しかし後から投げられたナイフが先に投げたナイフの柄に当たり軌道が変わると少しだけその表情を崩した。紛れ当たりなどではない、意図的なものだ。
宙に投げられた拳銃を目視する事無く手中に収め、躊躇う事なく名前は引き金を引く。これまでの動作で僅か数秒、人間業とは思えないその動きに、風は瞳を輝かせた。

「成程、それが“ヴァリアークオリティ”と呼ばれるものですね」

素晴らしい、と微笑む風の拳法服は肩の部分が破れているものの致命傷には程遠い。
暗殺におけるプロ集団とマフィア界においてその名を轟かせるヴァリアーに属し、マーモンの手足となる名前が、この程度の傷しかつけられない。グリップを握る手に力が入る。
風に向かって撃ち込まれた数発の銃弾は、繰り出された拳によってあらぬ方向へと減り込んだ。そのうちの一発が名前の頬を掠めた。ピリッとした痛みが一瞬走り、思わず顔を顰める。──拳圧で鉛玉を吹き飛ばすなど、聞いた事がない。
世界最強と謳われるアルコバレーノの実力を身を以て知る。冠されたそれは伊達ではない。
服の上からでも分かる、鍛え上げられた体躯には一切の無駄な動きはなく、風が本気を出せば名前は一瞬で地に伏せる事になるだろう。けれどそれをしないのは飽く迄も彼の目的が“手合せ”であるからだ。一方的に捻じ伏せてしまっては何の面白味もない。

「匣を使っても構いませんよ」

「マモちゃんの許可なしには使用しないと決めています」

靴音を鳴らし床を蹴り上げる。風の間合いに踏み込んだ名前は拳を振り下ろす。それを受け止め名前の肩に手を置いた風は何の躊躇もなく彼女の肩の関節を外した。ごき、と嫌な音が脳内に響く。無様な呻き声を出す間すら惜しく、名前は唇を噛み締め痛みを享受し、脱臼に構わず身体を回転させ脚を振り下ろした。
確かな手応えに喜んでいる暇はなかった。長い三つ編みを揺らし、崩れた体勢を瞬時に持ち直した風は名前の首元に爪先を立てた。しゅるりと布が擦れる音がし、結われていた名前の長い髪が重力に従って落ちる。解かれたリボンに気を取られている間に体重を掛けられ、抵抗する術もなく床に身体を縫い付けられた。綺麗に揃えられた手がぴたりと名前の喉元に添えられる。
「…参りました」観念したように名前の口から告げられたその言葉を聞いて、風は柔和な笑みを浮かべた。マウントを取られて身動きできない名前の上半身を抱き起こし、脱臼した肩を嵌める。小さく呻いた名前の頬をそっと撫で上げて、風は至極満足そうに言った。

「独学でこれ程とは、バイパーも素晴らしい逸材を見付けてきたものです」

「…よく、お分かりですね」

「その道には詳しいもので。どうでしょう、もっと強くなってみる気はありませんか?」

型に嵌らず独学で体術を学び鍛え上げるには、どうしても完成度が劣る。しかし稀にそれに当て嵌まらない所謂天才型が現れるが、名前は風にとってその2人目である。1人目が誰であるかは想像するに難くない。「マモちゃんが、それを望むのなら」零れ落ちた言葉に風は少しだけ口角を上げる。

「そこに貴女の意思は反映されないのですね」

「私は、あのひとの為に在りますから」

何がマーモンと名前をそこまで繋ぎ合わせるのか、風は知らない。見上げる名前の瞳は一切揺らぎがない。──これだけ熱心に想われるなんて、バイパーは随分と幸せ者だ。
長い髪を一束掬い上げ、そっと口を付ける。小さく揺れた肩を見て風はくすくすと笑い声を漏らした。「可愛い人ですね、貴女は」長い指先が頬を伝い、頬の銃創をなぞるように触れる。血が固まりつつあるそこは、少しだけ熱を孕んでいた。
上半身を抱き起こした体勢のまま、名前に跨るようにしゃがむ風が動こうとしない限り彼女は彼の指先から逃れられない。ふんわりとした柔らかな髪が首筋に触れ、何が起きているか分からず瞬きを一つして呆けた顔をした名前は、頬に走った痛みとぬるりとした感覚に背筋を震わせた。

「な、なにを…」

「消毒です、と言ったら怒られませんかね」

からかうように名前の鼓膜を柔らかな笑い声が揺らす。舌先が悪戯に銃創を抉るように舐め上げ、ぴりぴりとした痛みに腕が粟立つ。決してそこは大けがと呼べるものではないが、だからと言って痛みを助長するような行為が許されるわけがない。
仕事柄切創銃創は当たり前、怪我とは切っても切れない仲ではあるが、頻度が多いからと言って痛みに耐性がつくのかと言えば、そうでもないのが悲しいところである。
「ああ、ここも切れてますね」唇を噛んだ時に切ったそれを親指がなぞる。「は、ちょっ、風さん…っ、」ワザとなのか否か、まったく判断がつかない。にこりと名前と目を合わせて口元を緩ませた風は、彼女の静止の声も聞かずにぺろりと彼女の唇を舐め上げた。柔いその感触に大きく肩を震わせる。

「ま、マモちゃ──っ」

名前にとっては、これが限界だった。目尻を薄らと潤ませて自分の全てを握るその人を呼ぼうとした唇は、全てを紡ぎ終わる前に風に塞がれる。いつの間にか後頭部に回された風の手が、優しく名前の髪を梳いた。
鋭い触手が風の身体を突き刺す勢いで襲い掛かってきたのはその時である。
とん、と動じる事無く軽い身の熟しで名前から退いた風は、両手を袖に隠すように腕を組んで「久しぶりですね」と声を上げた。大した動揺の素振りすらない事から、予測しての事か。名前の周りを威嚇するように這う触手から、軈て見慣れた人物が姿を現した。
他のアルコバレーノとは違い、世界で3本の指に入るその幻術使いは自ら好んで赤ん坊の仮の姿を創っている。名前の肩にちょこんと乗ったマーモンは小さな手でそっと名前の頬に触れ、目の前でにこにこと笑う風に鋭い殺気を向けた。

「何勝手な事してるのさ」

ダダ漏れの殺意と滲む機嫌の悪さの一切を、マーモンは隠す気がなかった。それを受けても風は表情を崩さない。相変わらずいけ好かない、とマーモンは口元をむ、と歪める。
名前の顔の傷を見る限り自分が不在の間に一悶着あった事は確かであるが、こうも好きにされては腹の虫がおさまらない。

「あなたがお金以外に興味を持ったと聞いて、つい嬉しくて様子を見に来ました」

「…相変わらずのその物言い、ほんとムカつく」

「そんなつもりはないのですが…」

ぷりぷりとしたマーモンの様子に、名前は目を丸くする。マーモンがこれ程露骨に態度に出すなんて珍しい。八つ当たりも含めて、うねる触手がぺちりとしゃがんだままの名前の頭を叩いた。

「こんな優男に何為て遣られているんだい」

「うっ…すみません」

そんな2人の事を微笑ましげに見ている風の視線も、マーモンは気に食わない。「不法侵入と治療費と見物料その他諸々、しっかり払ってもらうからね」金への執着は相変わらずだ。「この様子では快諾はしてもらえそうにありませんね」小さく肩を竦めて、風は溜息を吐いた。

「名前、何の話だい」

「風さんが稽古をつけましょうか、と」

「……風、勝手は許さないよ」

「才ある者は伸ばしたい、そう思うのは至極当然の事でしょう」

伸びる触手に動揺する事もなく、ゆらりと躱して風はそう答える。最強と謳われた無敵の武道家は、強い者に目がない。温厚そうな瞳の奥に眠る獣が牙剥く様に名前は思わず身震いする。
「風、」随分と怒っているのだと、本来の姿に戻ったマーモンの低い声を聞いて、名前はその剣幕に一言も声を発せず胸中思う。赤子の時とは違って体温の低い指先が名前の頬に触れた。

「この子は、僕のものだよ」

フードを深く被ったマーモンの表情は窺い知れない。
キキッと小さく鳴き声を上げて、名前のリボンを手に持った猿が彼女の手のひらにそれを落とす。「リーチ、ありがとう」そのまま主人の頭の上へと目掛けて走ったその子は、随分と躾が行き届いているらしかった。
開けっ放しのままのバルコニーの傍へ後退した風は、にこりと2人に笑いかける。勧誘には失敗してしまったが、予想以上に面白いものが見れた。アルコバレーノとしてそれなりの付き合いが風とマーモンにはあったが、あんなに感情的に動くマーモンも、金以外に執着を見せる姿も風は見た事がなかった。
苗字名前は思った以上に、マーモンに影響を与えているらしい。

「それでは、また」

「もう来なくて良いよ」

丁寧に窓を閉めて名前に小さく手を振った風は落胆している様子はなく諦めているようにも見えない。忌々しげに舌打ちを溢してソファーのクッションを投げつけたマーモンに名前は苦笑を浮かべるしかなかった。
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