根拠のない指切り


ドクドクと心臓の鼓動が煩い。すっかり小さくなってしまった拳を自嘲気味に見つめ、グッと握る。…遅かれ早かれ、こうなるとは思っていた。ずっと身を隠し続けるにも限界がある事も知っていた。たった一人でベルモットと対峙しに行ってしまった彼を思い浮かべ、灰原は深く息を吐く。──彼を、犠牲にしてはならない。
握る拳が震えているのに見て見ぬフリをして、灰原は予備の追跡眼鏡を手に取った。──もう、誰も失いたくはないのだ。
だから、灰原は覚悟を決めた。
自分の運命から逃げるなと叱咤してくれたあの名探偵を死なせる訳にはいかないから。

「良い月だね」

コートの隙間から忍び込む風は何とも冷たい。雲一つない空にぼんやりと浮かび上がる月を見ている余裕など、今の灰原にはなかった。
阿笠邸の目の前の家の塀の上に見慣れたスーツの女とフードを深く被った赤子が月明かりに照らされながら佇んでいた。──まるで、灰原が出てくるのを待っていたかのように。
思えば、あの赤子が自ら自分に話しかけてくるのは初めての事だ。追跡眼鏡を作動させると、GPSが信号を捉えた。
どうして、だとか、何故なんて疑問は今この場において全て不要だ。──時間がない。これは、悪魔との契約にも似ていると心のどこかで思った。
決して手を出すべきではないのかもしれない。けれど、灰原には目の前に居る人の皮を被った悪魔に縋るしか、道はなかったのである。

「…仕事の、依頼をしたいわ」

「ふぅん。どうやら、思いの外追い詰められているようだね」

「…幾ら、出せばいいの」

「残念だけど、君くらいの人間が持つ預金なんかじゃ、僕らは動かないよ」

ふわりと、マーモンは浮き上がる。街灯に照らされた口元は、珍しく弧を描いていた。──嗚呼、そうか。灰原は目を閉じる。
この強欲の塊の悪魔は、金を要求するつもりなんてなかったのだ。狙いは初めから決まっていた。だから、まるで謀ったかのようなタイミングで今目の前に現れたのだ。

「──欲しいのはAPTX4869に関する事ね」

「話が早くて助かるよ。そう、僕が欲しいのはその薬物に関するデータの全てさ」

「けど残念ね、それは私が組織を抜けた際に研究所に残してきてしまったもの。今手元にはないわ」

「“今は”ね。どの道、君や工藤新一が元の身体に戻る為にはあの薬物のデータが必要不可欠になる。何れ手に入るんだ、報酬はAPTX4869のデータ全て。
それが僕らに支払う金も持ち合わせていない君が差し出せる、唯一の対価だよ」

名前は無表情のまま、マーモンと灰原双方に視線を送る。ベルモットに招待されたパーティーに出なかったのは、こういう事か。
マーモンは、何よりも自分の利益になるように動く。珍しく金ではなく報酬にAPTX4869を指定してきたのも、あの薬品の持つ価値を十分に理解しているが故だ。
この取引は強制ではない。なかった事にするのは簡単な事だ。ただ、選択すれば良い。そうすれば瞬きの間に名前とマーモンは闇に紛れ込んでしまうだろう。
しかしそれを安易に出来ない灰原の心境も、手に取るように解っていた。嗚呼可哀そうに、きっと彼女はこの悪魔から逃れる事は出来ない。

「……わかったわ」

長い沈黙の後、決断を下した灰原の瞳に後悔の色はなかった。自分を犠牲にする覚悟が出来ている今、目の前に立ちはだかる障害物など何もありはしない。

「交渉成立ですね」

漸く名前は口を開いた。とん、と軽く地を蹴って灰原の目の前に降り立った彼女は、初めてマフィアと依頼人として対峙する。
「さあ、何なりと」伸ばした手に触れる小さな指先は酷く冷たかった。


***


「あらら、ギリギリセーフってやつですかね?」

「間に合ってはいるからね」

つい先日、名前達が追い詰められたあの埠頭。同じ場所を選ぶなんて、随分とセンスのない事だ。腹部を押さえながら蹲るのは見覚えのあるFBI捜査官。その横で得意の腕時計型麻酔銃を目の前のベルモットに構えて微動だにしない小さな名探偵は、名前と灰原を視界に捉えるなり酷く動揺した表情を見せた。

「どうもこんばんは、殺し屋です」

にこりと営業スマイルを浮かべて名前は拳銃を一丁構える。安全装置を外したのと粗同時に2人を狙って数発──けれど、マーモンに掛かればこんなもの、オモチャの弾と同義だ。
逸れて近くのコンクリートを抉るだけに留まった狙撃は何の意味も成さなかった。挙句、自ら狙撃ポイントを教えてしまったのだ、取り返しのつかないミスも犯した。

「カルバドス、撃ったらダメよ」

長い金色の髪を風に靡かせて、瞳を愉しげに輝かせるベルモットは名前を見据え笑う。「パーティーには来てくれなかったのね」「生憎と、許可が下りなかったもので」見つめ合う視線は意図的に逸らされ、ベルモットの瞳は肩で息をする灰原を捉えた。それを見て動揺の色を濃くしたコナンは「に、逃げろ灰原!!」と声を荒げる。
笑みを深め、ゆっくりとコナンに近づいて行く魔女に、彼は気づけなかった。

「welcome…sherry!」

時計の向きを変えて麻酔銃を撃ち込まれたコナンに意識はない。アンクルホルスターから拳銃を引き抜いたベルモットは、躊躇うことなく銃口を灰原へと向けた。

「バカな女…このボウヤのカワイイ計画を台無しにして──わざわざ死にに来るなんて」

「ただ死にに来たんじゃないわ。全てを終わらせに来たのよ」

自分を犠牲にする覚悟は、組織を抜けた日から疾うに出来ていた。ただ、今は自分の命と引き換えにしてでも守らなければならない命が目の前にある。彼には、自分とは違って待っている人がいる。守るべき人が。大切な家族や友だちも。だから、ここで死なせる訳にはいかないのだ。
身体を震わせながら取引を持ちかける小さな少女に銃口を向けながら見下ろすベルモットはどこまでも残酷だ。

「あら。私はてっきり、良いボディーガードを連れて来たから悪足掻きでもするのかと思ったのだけれど?」

「嗚呼、私たちの事はお気になさらず。保険みたいなものなので」

ベルモットとは違い、掌でくるくると拳銃を回して呑気にそう言った名前に、殺意は見られない。保険、と聞いてベルモットはピンと来たようだった。
全く、どこまでも用心深い女のようだ。口約束だけでは信用出来ないらしい。「Yes」と答えながらベルモットは胸中思う。疑う事は悪い事ではない。
こんな取引を持ち掛けなくとも、初めからベルモットは江戸川コナンに手を掛けるつもりは毛頭なかった。自分にとってこの世に2つしかない、大切な宝物なのだ。

「さあ、まずは貴女からよシェリー」

けれど、この取引を持ち掛けられた事で小細工をせずとも、コナンを守る事が出来る。この礼は、数秒後に転がった亡骸にきちんと言ってあげなければ。安全装置は既に外してある。──あとは、引き金を引くだけだ。
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