譲れぬものが相容れぬ


意識というものは、何の前触れもなく突然戻るものだ。パチリと目を開けて、見慣れない天井が目に入り、名前は息を詰めた。まず確認するのは、自分の今の容体だ。右肩に走る痛みが、今まで起きた事が現実であると告げる。手足は拘束はされておらず、額には熱さまシートが貼られていた。怠さの残る身体を無理矢理起こして、名前は頭を押さえた。記憶がすっぽりと抜け落ちている。赤井秀一に追い詰められてマーモンを呼んだところまでは覚えている。そこから現在に至るまでの記憶が全くない。意識を失っていてどのくらい経過したのか、部屋には時計もなく今が何時なのかすら解らない。──此処が、どこなのかも。
ゆっくりとベッドから抜け出し、部屋を見回す。寝室というには此処は生活感が無さ過ぎた。部屋にあるのはこのベッドのみで、サイドテーブルの一つもない。明らかに不自然だった。
頭痛が大分落ち着いたところで、名前は軽く身体を動かした。右肩以外は多少鈍ってはいるが問題はない。丸腰でも1人2人くらいならどうとでも出来る。まずは此処が誰のテリトリーであるのか確かめる必要がある。敵味方の判断などするだけ無駄だ。高確率で前者の可能性の方が高いのだから。
シャツの襟に指を這わせ、指先に触れた小さな発信機を一つ握り潰して名前は目を細めた。ゆっくりとドアへと目を向ける。きっと今ので名前が意識を取り戻した事に気が付いた筈だ。短く息を吐いて、名前は一歩大きく前に出た。

「…命の恩人に向かって、随分乱暴な事をするじゃないですか」

「ご丁寧に気配を消して入室するような人間には例え“恩人”でも警戒するようにしているんです」

とん、とドアの開くタイミングに合わせて蹴り上げられた足先を片手で難なく受け止めて、彼──安室透はにこりと柔和な笑みを浮かべた。
足首を掴んだまま空いている手で右肩に少しの衝撃を与えれば、名前の身体は呆気なくベッドに縫い付けられた。「まだ本調子ではないようですが」見下ろす安室は笑みを崩さない。
ずきりと痛みが走る──どうやら傷口が開いたようだ。は、と大きく息を吐き出した名前は、そのまま力を抜いた。この状況では悔しいが勝算がない。

「…何故、マーモンは貴方を、」

「さあ、どうしてでしょうね」

「何が、望みですか」

見下ろす安室の笑みが深まる。思わず背筋に冷たいものが走った。「嗚呼、悪いようにはしませんから安心してください」一体、どの口が言うのだ。
伸ばされた手が労わるようにゆっくりと名前の頬を撫でる。主導権を握られているうちは、名前も迂闊には動けない。
手負いという不利的条件を持っている名前に、安室は警戒を解いてはいなかった。拘束はされずとも、発信機は仕掛けられていたし、武器になるようなものが一切部屋には置いてなかった。赤井もそうであったように、別の意味で目の前のこの男も危険だ。
少しの沈黙の後、安室は指先でトン、と名前の左胸を突いて言った。

「実は、“俺の”駒になって貰おうと思いまして」

「…成程、今の貴方は降谷零という訳ですか」

左胸を突く指先が示しているのは紛れもなく名前が所属し、背負うエンブレム。FBIと言い公安と言い、目的の為なら手段を厭わないという姿勢は同じようである。

「マフィアを公安の協力者に選ぶ酔狂な人間は後にも先にも、きっと貴方だけですね」

「それはYesと取って良いという事か?」

「まさか。答えはNo一択です。私が膝を着く人間は他の誰でもない、マーモンただ一人だけです」

確かな意思を持った双眸が降谷を見抜く。「一筋縄ではいかないのは分かっている」諦めるつもりはないと、どちらも譲れないものを持っているが故、引く気はない。
「名前」と彼女の名を呼ぶ小さなこの存在が、名前にとっては全てだ。小さな爆ぜる音がベッドの足部分とドア付近のコンセントの中から上がった。
「どうやら見つかってしまったようだな」残念だと笑う降谷は、しかしそんな事微塵も思っていないかのようにそちらに見向きもしない。つくづく言動が伴っていない男だ。
身体を起こした名前は、アイスブルーの瞳を至近距離で見つめる。一見冷えきった印象を与えるそれは、その瞳の中の底で煌々と燃える何かを隠す隠れ蓑にはちょうど良いのだろう。

「私たちは、貴方たちのシマを荒らすような事は極力しないつもりです」

「絶対とは言い切らないんだな」

「はい。それを決めるのは私ではありませんから」

「……」

「裏社会にも規律はあります。もしそれをあの組織が食い荒らすと言うのならその時は──」

動いた唇が紡いだ言葉は、どっしりと確かな重みを含んで鼓膜を揺らした。閉め切った部屋からふんわりと生まれた不自然な風が降谷の髪を撫で上げる。何かを警告するようなそれを無視して、一瞬の隙を突いて降谷は名前の後頭部を引き寄せて自らの熱を唇に押し付けた。
「な、なにを」目を見開いて動揺の色を隠さない名前のその様子に酷く満足した男は、すっかり本来の姿を隠し安室透の顔になっていた。

「随分可愛らしい反応をなさるんですね」

ほんのりと色付いた頬を指先がからかう。しゅるりと解かれた赤いリボンに気を取られた名前を、安室はもう一度引き寄せた。口の端から漏れる吐息すら可愛らしい。ぷるぷると腕の中で震える彼女は小動物を連想させる。この不慣れさを演技と言うのなら、彼女はレッドカーペットの上を確実に歩めるだろう。
暗殺を謳う組織なら、ターゲットを油断させる手段として女性が使われる場合も多い筈だ。目の前の苗字名前という女性は、それに長けているようには到底思えなかった。
安室の脳裏に浮かぶ、あの小さな赤ん坊。涼しい顔をして所有物扱いする割に、物は物でもまるで壊れ物を扱うかのように大切にしているんだな、と口角を上げた。

「……っ、」

「看病した上に今回は見逃してあげると言っているんです。これくらい、頂いても罰は当たりませんよね?」

あのベルモットが気にする存在を手元に置いておく価値は、十分にある。
涙目で保護者の名前を漏らす唇に、安室は容赦なく三度目のそれを落とした。
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