第六感の不全


「苗字、バスに乗るわよ」

「……ええ?」

「だから、バスよ、バス。聞こえなかったの?」

グイグイと名前の手を引き、スミレは目についた近くのバス停で歩みを止め、明け透けに言い放った。
先程まで彼女に付き合ってショッピングをしていたというのに一転、買い物に飽きたのか満足したのか、スミレは持前の悪気のないワガママを今日も惜しみなく発揮した。
今まで付き人がいないと通学外で外出許可が中々下りなかった事を、常々スミレは不満に思っていた。行き過ぎた過保護は否めないが、その根底にある親心など、遊びたい盛りの娘には知った事ではない。
そんな中、彼女の目の前に現れた苗字名前は、スミレの外出のお供に連れて行くには正に打って付けの存在だった。苗字名前を引き合いに出した事であんなに渋っていた父親が彼女が一緒に居るのならと外出許可を即答したのだから、ヴァリアーの持つネームバリューは凄まじい。
マフィアって凄い。ボンゴレって凄い。

「一区間?でいいのよ。民間人の乗り物に乗りたいの」

「民間人…」

「偶の外出ですら、車移動で女心も分からない中年とむさ苦しい買い物をしていたのよ。ね、いいでしょう?」

バスに乗ってみたい。酷く簡単なワガママだった。しかし、酷く簡単なそれを叶えてやる事が、今までは難しかったのだろう。彼女は自由そうに見えて、実際のところ随分と柵が多いようだ。
「…いいですよ」と、折れた訳でも同情した訳でもない。仕事だからだ。
対象者が望むのなら、どんな事も、どんな所も着いて行き、己に与えられた任務を遂行する。バスに乗った所で何が起きる訳もない。例え起こったとしてもその時はその時、背負う組織の名前にかけて、任務を遂行するのみだ。
──まさか“もしも”を仮定したこれが実現するとは、名前もマーモンもこの時は思いもしなかった。

「バスって乗り口が二つあるわよね?」

「一般的には前から乗って運賃を先払いし、降りる時は車内に設置してあるブザーを押して下車を知らせ、後ろから降ります」

「ふうん」

「ですが場所によっては後ろから乗車したり、区間毎に運賃が定められている場合もあるので一概には言えません」

「深いのね、バスって」

「……まあ、普段お乗りにならない身としては、そう思いますよねえ」

会話を盗み聞いていたのか、スミレの真後ろにいた──恐らく男性が、ギョッとしたようにこちらに視線を送ったのが気配で分かった。恐らく、と付け足したのは彼らがニット帽とゴーグルを装着して顔が見えなかったからだ。「…妙ですね」思わず漏らした独り言を拾ったのは、彼女の肩に乗るマーモンだけだった。
恰好からしてスキーにでも行くのだろうという事は解る。問題は、態々ゴーグルを装着してバスに乗ろうとしているという事だ。
──まるで、顔を見られないようにするのが目的のように。

「あ、来たわよ!」

「…そうですね。スミレさん、一応聞きますが一本バスを遅らせてみる気はありますか」

「何言ってるの。あるわけないじゃない」

「ですよね」

諦めたように溜息を吐いた名前を、彼女の前に立つマスクを着けた男が一瞥する。
「…なにか?」「いや」こほ、と風邪でもひいているのか掠れた声で男は短く名前にそう返し、何事もなかったかのように前を向き直した。



***



「騒ぐな!!騒ぐとぶっ殺すぞ!!!」

名前は眉間を手で押さえた。こんなに簡単に“もしもの事態”が発生していいのか。どうなっているんだ日本。犯罪発生率の低さは事件を隠蔽しているからなのか。
ドン、と銃声をバスの天井に向けて一発。それで車内は我に返ったように悲鳴が溢れ、軽いパニックを引き起こす。今のご時世に、しかもまさか自分が乗っているバスがジャックされたと、誰がすんなりと理解出来よう。ドラマだけの世界だと思っていたものが、目の前にある。
威嚇するように犯人の一人がまた、一発。車内は水を打ったように静まり返った。「お止めなさいな」──凛とした声がそんな事お構いなしでその空気を打ち破る。
手を腰に当てて、犯人の目の前に立ったスミレは名前の静止も聞かずにそのまま続ける。後ろでは名前が頭を抱えている。彼女の持つショッピングバッグがそれに合わせて揺れ、袋の擦れる音が切なげに響いた。

「あなた、日本でのバスジャックの成功例が何件か知っていて?」

「ああ?」

「ゼロよ。良く知りもしないで素人が拳銃で自分の存在を誇示しようとするなんて愚挙の極みね」

「てめえ、自分が置かれている状況を思い出してから物を言え!!」

ハッタリだとでも思っているのか、拳銃を向けられてもスミレは怯むことなく真っ直ぐ前を向いて犯人を見据える。ふ、と男が短く息を吐く。
いち早く察した名前が思い切りスミレの腕を引っ張ったのと、三度銃声が車内に響き渡ったのは同時だった。名前のお蔭でスミレに弾丸が当たる事はなく、弾丸はその真後ろの手摺り部分にめり込み、それを見た近くに座っていた乗客の一人が「あ、あ…っ」と声にならない音を漏らした。それはスミレの立っていた場所次第では流れ弾がその人に当たっていた可能性があると暗に示していた。

「あと5発」ポツリとそうスミレが呟いたのを名前は聞き逃さなかった。スミレを一般人とは言い切れない所はこういう部分にある。
スミレはあの拳銃がTT−33通称トカレフであると知っている──装填数が8発であることも。けれど、それを理解していたからと言って彼女一人でどうこう出来る問題ではない。一般人としても“こちら側”の人間としても中途半端でしかない彼女は、厄介と言う他なかった。
名前としてはスミレを守るのが任務、その他がどうなろうと知った事ではないが、先程から名前の背にチクチクと刺激するような視線が突き刺さり、好きに動けないのが現状だった。
このバスに見知った小学生が一名乗っているのに気が付いたのは乗車してすぐの事だった。一区間しか乗らないのだからと降り口に近い後ろに歩いていれば、意図せずともその存在が視界に入ってきたのだ、本当に偶然とは恐ろしい。
名前の位置からは見えなかったが、彼が居るという事は、彼女もその隣に居たのかもしれない。
さり気無くスミレを自分の後ろに庇うように犯人との間に入った名前は相手を刺激しないように怯えた表情を作って口を開く。

「彼女、世間知らずなところがありまして…大人しくしますから、どうかこれ以上は」

「おい、お前その女の友達か?」

「……そうです」

恰幅の良い犯人は何かを思案するように一拍置き、拳銃を反対の手に持ち替えてポケットから折り畳みナイフを取り出し、それを容赦なく振り下ろした。途端、車内に再び乗客の悲鳴が湧き上がる。
「苗字、っ!」スミレの叫ぶ声と名前の息を呑む音が重なる。どくり、と心臓が脈打つ度、斬られた腕から血が流れているような錯覚に襲われる。じくじくと染み出す赤がシャツを汚し、指先からぽたりと落ちたそれが小さな血だまりを作った。傷口が熱い。この感覚は久しぶりだった。

「大人しくしていろ!次はねえからな」

それはスミレに向けられた言葉だった。敢えて名前に危害を加えたというのは、つまりはそういう事だろう。どうやら犯人は思ったほど馬鹿ではないらしい。
仕方なしに横並びの優先席に腰を下ろした2人は、携帯端末を大人しく手渡し息を吐いた。
犯人たちが後部座席に移動したところでスミレは名前が足元に置いたショッピングバッグのうちの一つを掴み取り、包装されたそれを雑に開けて一枚のスカーフを取り出した。
確かそれはフサエ・ブランドの新作の限定品だったものだ。何故今それを、と問い質す前に、スミレはそれを名前の腕にキツく巻きつけた。

「おいそこ!!何してんだ!!」

後部座席に居た筈の男が怒声を上げながらスミレの前に立つ。
肩を揺らしながら「…怪しい事はしてないわ。止血しているだけよ」買ったばかりのスカーフが血に染まるのを気にもせず、淡々とスミレはそう返した。チッと大きな舌打ちを溢して、また後部座席の方へと大股で歩いて行ったのを見届けて、名前は目を細めた。「どうやら共犯者がいるようだね」「そのようで」
犯人たちはこちらに背を向けていた。それなのにまるで見ていたかのように目敏くスミレの動きに気が付いた。後部座席に座る誰かが、何かしらの方法で知らせたとしか考えられない。
マーモンの小さな手が名前の頬に触れる。子ども特有の体温の高さを感じて名前はそっと目を閉じた。

「ごめんなさい」

彼女にしては珍しい、か細い声だった。なんだ、謝る事が出来るんじゃないか。場違いにも、名前は妙に感心してしまった。誰かに頭を下げるなんて死んでもしなさそうなスミレが、目を伏せて今にも泣きそうな顔をしている。
止血をしたのは自分の軽率な行動の非を認め、少しでも責任を取ろうとしたからか。──しかしまあ、それとこれとは話が別だ。
名前は息を吸う。米神の辺りがぴくりと痙攣した。

「…次、余計な事をしたら窓を叩き割って外に放り出しますからね」

存外低い声が出た。スミレがその言葉に息を呑んでもう一度謝罪の言葉を口にしたのは、名前の額に浮かぶ青筋をしっかりと見てしまったからなのかもしれない。怒っている。
何度も小さく頷きながら限界に達したのかはらはらと泣き始めたスミレを見て、名前は再び眉間を押さえた。
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