減らない角砂糖
「そんなに遠くには行っていないようだね」
「この位置はホテルの旧館、ですかね」
マーモンの“粘写”は非常に便利だ。傍から見れば赤ん坊が鼻をかんでいるだけだが、マーモンはその行為で特殊紙に特定の人間の現在地を映し出す事が出来る。決して綺麗な行為とは言い難いが、暗殺任務の多いヴァリアーでは重宝される能力の一つだ。
日も落ち真っ暗になってしまった空からは雪が降り止まず、ゆっくりと確実に周囲を白へと染めている。はあ、と息を漏らせばそれすら白い。自分とは対照的なそれに思わず自嘲的な笑みを浮かべた。
人気のなくなった雑居ビルの屋上で、ライフル片手に名前は乗り込むべきか否かを迷っていた。粘写では居所は分かれど正確な位置までは特定出来ない。ならばとホテル全体が見渡せるポイントを見付け待機していたが今のところ進展はない。
「……おや」
「どうやら当たりのようだね」
入口前に止まったのは、ポルシェ356A。そこから出てきた人物を見て、名前は口角を上げた。自らと同じく、彼らも随分とまた雪が似合わない。手に持っている端末は恐らく、発信機の信号を探しているのだろう。程なくしてホテルへと入っていったジンとウォッカの向かう先に──名前の目的の人物も居る。
しかしこのままでは再会するより先に彼らに殺されてしまう。今からロビーに行ったところで間に合う訳もない。どうしたものか、と思案していると、見覚えのある小さな子どもが血相を変えて中に入っていくのが見えた。
「どうする気だい」
「ここで待つ事にします。もしかしたら彼らから逃げ果せて屋上に現れてくれるかもしれませんし」
「もし現れなかったら?」
「その時はポインセチアでも手向けてあげようかと」
「…花言葉を知っているのかい」
「いいえ?ただ今シーズンじゃないですか」
はあ、とマーモンは溜息を吐いた。この子は時々妙にズレた事を言う。そんな雑談をしていると、いつの間にか屋上の煙突部分から這い出てきた女性が一人。
「ああやっぱり」彼女を視界に捉えて、名前は嬉しそうに微笑む。
「ムム。妙な恰好はしているけど、本当にあの時の女だね」
「小さくなったり大きくなったり、不思議な人ですよね」
「…売ったら幾らかにはなるかもね」
「人身売買はダメですよ」
こちらはライフル片手に和やかな空気を漂わせているが、向こうは対照的に逼迫している。真っ白い雪を染める血は、恐ろしいくらいに赤い。肩、腕、頬と容赦なく降り注ぐ弾丸は着実に命を削りにかかる。身体が言う事をきかないのか、ズルズルと壁を背に倒れ込んだ彼女は、虫の息のように見える。
ゆっくりと、ジンが銃口を向ける。恐らくこれが最後の一発になるだろう。「さて、と」スコープから久々に見たジンの顔は、相変わらず同業者のするそれだった。
引き金が引かれたタイミングに合わせて、名前も指に力を込める。視界の悪い中それは狙い通り、彼女を貫く筈だった鉛弾を見事に弾き飛ばした。そこで初めて第三者の介入を察知したジンが目の色を変えてこちらを見る。しかし視界不良という悪条件は彼らにとってもまた然り。彼の目が名前の姿を捉える事はなかった。
「ふうん。あの子ども、中々やるじゃないか」
「面白いモノ持ってますよね。武器チューナーのジャンニーニが好きそうです」
追い打ちをかけるように2,3発適当に狙撃をして彼らの注意を逸らす。その間に這い上がってきた煙突にその身を投げた彼女は、無傷ではないにしろ生きてはいる。上出来だ。
あとはあの少年の働きに期待する他ない。「ここから撤退するよ」退屈そうにマーモンはそう言い、名前の肩に乗った。
***
「こんばんは、また会いましたね」
「…やっぱりさっきの狙撃はオメーか」
乗り慣れたビートルの前に佇む名前は、射抜くような視線を向けられても表情を崩さない。運転席にいる阿笠は、通行人だと思っていた女性とコナンに面識があり且つ、会話から先程の銃撃戦に関与していた事を知り驚きつつも行動を起こせずにいた。
コナンに背負われたまま、浅い呼吸を繰り返す彼女は、聞き覚えのある声に反応して目を細めて名前を見つめた。
「貴女は…」
「借りは、返しましたよ“灰原”さん」
「どう、して…」
「見たところあの組織と仲違いをしたようですが、何はともあれ無事で良かったですね。これからは大変ですが、頑張ってください。──裏切り者の末路は、万国共通ですから」
灰原を背負いながらも、腕時計に手を伸ばすコナンを見つめ、名前はこれ見よがしに手をコートの内ポケットに忍ばせる。それが意味するものを瞬時に理解して、奥歯を噛みしめながらコナンは観念して腕を下ろした。「懸命な判断ですね」にこりと名前は笑う。
彼女の生存が確認できた今、もう彼らに用はない。それじゃ、と軽く手を挙げて名前は背を向けた。すぐ角を曲がり彼女が視界から姿を消すまで、コナンはまともに息が出来なかった。
「あの女性は一体何者なんじゃ?」
信号待ちで阿笠は額に浮かんだ汗を拭う。ただ話をしているのを聞いていただけなのに、何故こんなにも緊張をしていたのか。「苗字名前」助手席に座っているコナンがぽつりとそう零した。
「オレが知っているのは名前だけだ」
「…私が彼女に会ったのは一度きり。医者紛いの事をして結果的に人命救助をした、それだけよ」
「一般人じゃねえだろ、どう見ても」
額に手を置いて、灰原は大きく息を吐いた。あの時のあの行為を、苗字名前は“貸し”だと認識していたのか。何とも理解し難いが、結果的に彼女の借りを返すという行為が今に繋がっているのだ。彼女の介入がなければ今頃死んでいたかもしれないと起こり得た可能性を想像すると背筋が寒くなった。
「彼女は…敵じゃないわ。だからと言って味方って訳でもないでしょうけどね」
「イマイチ的を射ない言い方じゃねーか。オメーらしくもない。やっぱ組織絡みか?」
「いいえ。彼女、苗字名前が所属している組織は“ヴァリアー”よ」
「ヴァリアー?」
耳慣れない単語に阿笠は首を傾げる。苗字名前。敵ではないが、味方でもない。先程の曖昧な灰原の物言いの意味がやっと解った。
「イタリア最大規模と言われるマフィア、ボンゴレ。そのファミリー最強と謳われる独立暗殺部隊の事だよ」顎に指を添えて、コナンは灰原の代わりにそう告げる。
「なんと、彼女はマフィアなのか…」
「ボンゴレのボスと幹部の多くは日本人て噂だからな。日系人がマフィアに所属していても不思議じゃねーよ」
厄介な相手ではあるが、うまく立ち回れば組織を潰す駒にもなり得る。「使えるモンは、使うっきゃねーよな」不敵に笑うコナンを、阿笠は不思議そうに見た。
身体中を巡る痛みが、確かに生きているのだと実感させる。残念だけど、そんな簡単に物事は進まないのよ、と肩で息をしながら灰原は小さな背中を盗み見た。