滲んで融けた時間軸


「スミレさん、お怪我は?」

「……大丈夫よ」

会場がざわめく中、顔色一つ変えずにスミレの安否を一番に確認する名前は流石と言ったところだろう。そこに死体があろうとなかろうと、彼女には関係がなかった。
名前は死体を作り上げる側の人間だ。“どうして”“こう”なったのかを調べるのは彼らの仕事であって、その過程に名前は何の興味もない。

「……事故じゃ、ないんでしょう」

「ええ。発砲音がしましたから」

「誰かが暗闇に紛れて拳銃でシャンデリアを撃ち落としたって事ね」

「そうです。まあ、弾でも見つからない限り事故で処理されるでしょうけど。目撃者も居ませんし」

名前が気になっているのは、先程の少女の事だ。前に見た彼女と同一人物かも怪しいが、何らかの特異体質という事も有り得る。「気になっているんだね」肩に乗るマーモンには全てお見通しのようだ。

「…彼女には、借りがありますから」

「全く律儀だね、君は」

「もういいだろう!私は帰るぞ!!」事故という線が濃い中、いつまで経っても解放しようとしない警察に痺れを切らした参加者の一人が閉じられた扉まで大股で歩いていく。
それに続くようにぞろぞろと人が扉の前に押し寄せ、会場内は一層騒がしくなった。殺人と断定できないこの状況では警察に事情聴取という名目以外ではそこまでの拘束権はない。外に居るマスコミもこれだけの人数が一気に出てくれば相手もし切れまい。
「スミレさん、私達も出ましょう」混乱に乗じて、名前はスミレの手を取って、肩を引き寄せた。
「あら、妬けちゃうわね」その後ろ姿を視界に捉えて、ベルモットは誰にも聞き取れない声量でそう漏らした。口角は愉しげに上がっている。
その気配に気が付いたのは、一瞬そちらを振り向いたマーモンだけだった。

人がごった返す中、それを上手くすり抜けてエレベーター前まで来た2人の顔には僅かに疲労の色が浮かんでいる。今日はこれでお開きだ。
家にお送りしますよと名前が声を掛けるより早く、「大丈夫よ」とスミレが先読みをしてそう口に出した。

「お父様にはさっき連絡したわ。私からも言っておいたし、貴女はここまででいいわ」

「…ですが」

「何か気になる事があるんでしょう」

ぱちり、と名前が珍しく瞠目する。その表情を見れただけで、スミレは今日ここに来た甲斐があったと満足げに口角を上げた。
「私をその辺に飾られているお人形だと思ってたら、大間違いよ」ふん、と鼻を鳴らして得意げに笑うスミレに、名前は両手を挙げて降参の意を示した。

「安心して頂戴。報酬は満額払うわ」

「…ですって。良かったですね、マモちゃん」

「ま、当然だね」

「……あら、驚いた。ずっとそこに居たのね」

名前の肩に乗る赤ん坊の姿を見ても、スミレは言葉程そんなに驚かない。機械音がして、エレベーターが到着を知らせる。▽のボタンを押して、名前はやんわりと笑う。

「お迎えが来るまでは、私の仕事です」

「……そういうところ、嫌いじゃないわ」

「ふふ、有難うございます」

閉じられたエレベーターの中で感じる静寂さは、酷く心地が良かった。



***



人だかりを抜けた、会場の隅。子どもに似つかわしくない焦ったような険しい表情。ぎり、と奥歯を噛みしめるその姿は容姿以上のように感じさせた。

「こんばんは」

「…こんば、んは」

気配がなかった。否、連れの少女と逸れて焦っていた所為か。急に自分の前に人影が入り込んで、咄嗟の事に言葉を詰まらせる。対照的に柔らかな声色のそれに、迷子だとでも思われているのかと、少年──江戸川コナンは、子どもらしい表情を作って顔を上げた。
刹那、どくりと心臓が大きく脈を打った。自分を見下ろす女の表情は声と同じように酷く優しげだ。正に子どもに向けるようなそれ。
けれど、その瞳の奥の感情が、コナンを大きく揺さぶった。無意識に、冷や汗が頬を伝う。

「お姉さん、ボクに、何か用?」

黒いスーツ。徒ならぬ雰囲気。──この人が“ピスコ”なのか。断定するのはまだ早い。けれど、一般人より多く“現場”を経験している自分だからこそ解る、異質な雰囲気。
この人は、一般人ではない。

「一緒に居た女の子と、逸れちゃったのかなと思いまして」

良かったら一緒にお探ししましょうか?

全身が警鐘を鳴らす。この女は──危険だ。どうする、どう切り抜ける。目の前の女の目的は灰原哀で間違いない。問題はその目的の少女と一緒に居た自分がただの子どもだと思われているのか否かだ。

「外が暗くなってきたから、先に帰ったんだよ。ボクも、帰らなきゃ」

「一緒には帰らなかったんですね」

「う、うん。ちょっと喧嘩しちゃって」

「──駄目ですよ、ちゃんと見ててあげないと」

心臓の音が煩い。らしくもなくコナンは動揺していた。組織の人間かもしれない人物と直接対峙するにはまだ早すぎた。圧倒的に不利だ。子どもらしく大声を上げて人を呼ぶべきか。しかし、灰原の安否が確認できない今迂闊に動くのは賢いとは言えない。少なくとも、目の前の女が灰原を連れ去った線はない。
ピスコなのかその協力者なのか、組織の人間か否か。判断を下すには材料が少なすぎた。

「どうして、気にするの?お姉さん、花ちゃんのお友だち?」

背を向けた彼女に、敢えてコナンは問いかける。髪を結う赤いリボンを揺らして、振り返る名前の表情は先程と変わらない。

「彼女には、借りがあるので」

「……え」

「ほら、早く見つけてあげないと。手遅れになるかもしれませんよ」

「…ッ」

息を呑んだコナンを見下ろして、名前は曖昧に笑いかける。それ以上を続ける気はない。踵を返した名前に向かって、逃がすものかとコナンは咄嗟にベルトに貼ってあるシール型発信機を剥がした。狙いを名前のスーツの袖に定め、指で弾く。
この女は限りなく黒に近いグレーだ。少なくとも何かを知っている。逃がすものか、絶対に。
狙い通り飛んで行ったそれは、しかし目的の場所に貼り付く事無く名前の手に受け止められた。再び振り向いた名前の目には、先程の柔和な色が嘘のように消え失せていた。
とん、と一歩踏み出した名前はコナンの目の前に立って、そのまま目線を合わせるようにしゃがみ込む。

「面白いものを持っていますね」

余りの緊張感に、息をするのも忘れる。ぱちり、と小さな爆ぜる音がして、彼女の指がそれを握りつぶした。
「どうぞ、お返しします」やんわりと手を掴まれて、汗ばむ小さな掌にそれが落とされる。手はすぐに解放されたが、コナンは息を詰めて指先一つまともに動かすことが出来ないでいる。
しかし名前はコナンを追及するでもなく、拘束するでもなくもう用がないとでも言うように、静かに立ち上がる。

「ッ…待て!」

もう、子どもを装っている場合ではない。「何でしょうか」面白そうにこちらを見つめる名前はその変貌ぶりを楽しんでいるかのようだ。

「アンタ、一体何者だ」

「苗字名前と申します。“今日は”ある財閥のご令嬢のボディーガードとして此処に来ました」

「…灰原に何の用だ」

「言ったでしょう、借りがあると」

それ以上名前は話す気はないようだ。「ああそう言えば、」これが最後だとでも言うように、名前はコナンを見据えて問う。

「少し興味が湧いたので、お名前を伺っても?」

「江戸川コナン──探偵さ」

にこりと笑って、名前は瞬きの間にその姿を消した。
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