おかえりと、悪魔が嗤う


何が何だか、名前には解らなかった。意識が突然覚醒したのと同時に、大きく咳き込む。失われた酸素を体中が求めている。どうして、と声にならない疑問が出た。
殺された筈だ、確かに。なのに一体どうして、自分は生き返った。目に溜まった涙を、悪魔が拭う。

「死後の世界はどうだった?」

背筋がゾッとした。目の前の男は、確かに名前を殺した。そして、その後自ら名前に心肺蘇生法を施したというのか。正気の沙汰ではない。心臓がうるさい。
名前は頭がおかしくなりそうだった。
グロ・キシニアは狂っている。
再び両手が首を這う。それだけで喉が絞まるような感覚に襲われた。「ま、もちゃ……」おねがい、ころして。
名前の願いは届くことはない。
息絶えたのを確認し、直ぐに胸骨圧迫を施す。グロ・キシニアは待っている。強気な瞳が懇願の色を灯し、殺してくださいと泣き縋るのを。

「は、……っぁ」

何度、死と生を往復したのだろう。数えている余裕などなかった。心臓が軋む。弱り切っているのを、名前は自覚していた。

「そろそろ、おまえを頂くとするか」

ネクタイを抜き取られ、ぷち、ぷち、とシャツのボタンが外される。ぴくりと、僅かに名前の指先が動く。幸いにして、行為に夢中の彼は気が付いていないようだ。
指先に触れた先程脱ぎ捨てられた白衣の、ポケット部分。固い感触。目視しなくても解る。これは──

「ほう、まだ動けたのか」

銃口をこの距離で向けられても、グロ・キシニアは動じなかった。感心したようにそう言って、事の成り行きを愉しげに観望する。
今のお前に撃てるのか、そう嘲っているようにも見える。は、と名前は鼻で笑ってその意図を否定した。撃つ。絶対に。けれど、狙いはお前ではない。
パンッ、と乾いた音がして、彼の頬を弾丸が掠める。恐らく一発撃つのが体力的にも限界だった筈なのに、この距離で外した。やはりな、とグロ・キシニアは笑みを浮かべた。
満身創痍の名前の様子から、彼は完全に油断していた。直後に背後で何かが割れる音がして、炎がうねりを上げるまでは。

「なに…っ?!」

「ヒッ…くそ!」背中に炎が移ったようで、慌てた様子で名前から退いて、鎮火させようと転げまわる。その間にも、炎は酸素を取り込んで大きく成長していく。
名前とグロ・キシニアの間に炎が割り込んで、彼の侵入を拒む。殺そうとばかりに燃え盛る炎は、まるで名前を守っているかのようだった。
リスクを背負ってまでここまで戻ってくる気は毛頭ない。悔しげに顔を歪ませて、グロ・キシニアは部屋を後にした。
スプリンクラーが起動して炎を鎮めにかかるが、果たして間に合うのか。このまま死んでしまうのは、マーモンとの約束を違える事になる。出来る事なら脱出したい。
けれど──もう動けそうにない。
ごめんね、マモちゃん。小さく呟いて、観念して名前は静かに目を閉じた。

***

「Hi! cute kitty.また会ったわね」

ゆらゆらと燃える炎の中、意識のない名前を見下ろす一人の女。ウェーブの掛かった金色の長い髪が、炎に負けないくらいキラキラと輝く。
しかし、再会をゆっくりと喜んでいる時間はない。
挨拶もそこそこに、煙を吸い込まないように口元をハンカチで覆って、後ろに控えている男に早く運んでちょうだい、と目線で合図をした。

「連れていくつもりですか」

「勿論よ。ジンへの良いお土産にもなるでしょ?」

弱っちゃってるけど、と悪戯に笑って、ベルモットは床に落ちている赤いリボンを手に取った。バーボンは小さく溜息を吐いて、彼女のお望み通り、意識のない名前を抱き上げる。
三人が建物を出て程なく、大きな爆発音が響いて研究所全体が時折炎を吹き上げ崩れ落ちていく。
予定通り、目的のモノも回収して証拠も研究所ごと隠滅、おまけに予定外のお土産まで手に入れた。何て良い日なのだろう。
バーボンに抱かれている名前の頬は煤で汚れてしまっている。それをハンカチで拭い、肌蹴たシャツのボタンも留めてやり、ベルモットは薄く微笑んだ。

「目が覚めたらこの子、どんな顔をするかしらね」

「随分ご執心のようですね」

「ふふ、可愛いものは愛でるものよ。そこに明確な理由は必要ないわ」

名前の首元に浮かぶくっきりと付いた圧迫痕を見て、バーボンは眉を顰める。苗字名前という人間が一般人で無い事も、彼女が所属している組織についても疾うに調べはついていた。こうなったのも彼女の自業自得と言ってしまえばそれまでだろう。しかし、そう片付けてしまうには、あまりにも惨いと思った。彼女の幼さの残る顔立ちが同情に近い感情を抱かせるのか。
バーボンの車の助手席に、ベルモットの姿はない。後部座席にその身を置いて膝の上に名前の頭を乗せてやるその姿は滅多に見られるものでもない。挙句着ていたジャケットも掛けてやっているのだから相当ご執心らしい。随分面白いものが見れた。バーボン個人にとっても、今日の仕事は収穫があったようだった。
「ねえ、かわいい子猫ちゃん。死ぬって一体どんな気分なのかしらね」物言わぬ名前の首に残る濃い指の痕をなぞり、ベルモットは囁く。
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