死のうねり
「悔やむなら事態に気づけなかった己を悔やむのだな、ヴァリアー」
こつり、一歩男が前に出る。響く靴音に指先を僅かに動かした名前の反応を愉しむかのように、男の右目がピクリと動く。
「マモちゃん、」状況は最悪だ。けれど、素弾が彼の手の内にある以上、任務自体の遂行は成し遂げられる。
「……分かったよ」
小さな手が名前の頬を撫でる。「でも捨てるわけじゃないからね」ムッとした顔をするなりそう言ったマーモンに名前は小さく笑う。
完全にマーモンの気配が消え去ったところで男の「お別れは済んだようだな」という声が無情に響く。
「グロ・キシニアだ」
「覚えるつもりはありませんが」
「今からおまえを好きにする男の名前だ。覚えてもらわんと困るな」
ぐい、とネクタイを思い切り引っ張られ、距離を一気に詰められる。息苦しさに歪んだ名前の米神辺りを滑る指先が、この上ない不快感を名前に与える。
「……動けない女を甚振ろうとは、随分と悪趣味ですね」
「ヒッ…それは褒め言葉でしかないな」
「あの小瓶に入っていた液体、神経系を犯す毒物ですか」
「無味無臭、揮発性。元は拷問用にと開発されたうちの一つだ。防護マスクをしても無意味、この薬は皮膚から体内へと浸透する。それ故、問題点も多い代物だがな」
私にとっては大いに役に立ったぞ
ばさりと乱雑に白衣が床に脱ぎ捨てられる。手袋越しに伝わる体温が、逃げる事を許さない。
「美しい、実に美しい」頬を撫で上げる手が後頭部へと回され、抵抗も出来ぬまま髪を結うリボンを解かれた。重力に従ってばさりと広がる髪と、落とされるリボン。
一度も染めた事はないであろう濡れるような見事な黒髪を彼は大層気に入ったようだった。一筋を手に取り匂いを嗅ぎ、そのまま舐め上げる。
「うっわ」と思わず声が出た。すごく、すごく気持ちが悪い。抵抗出来ない事を良い事に、まるで人形に触れるようにグロ・キシニアは何度も何度も名前の髪を手櫛で梳かして挙句名前を思い切り抱きしめた。耳元で感じる彼の息遣いにすら、不快感を覚える。いっそ一思いに殺してくれたらどんなに良いだろう。
彼の反応を見る限り、最終的には殺されるだろうが、その前の生き地獄が目に見える。
「やはり髪をおろした方がいい。そそるぞ」
「死んでください」
「ヒッ!残念だが、死ぬのはおまえの方だ。苗字名前」
乾いた音が室内に響き渡る。頬を張られた名前は、その衝撃に身を任せるしかない。倒れ込んだ名前の上にグロ・キシニアが覆いかぶさる。舌を噛み切りたい気持ちだった。
喋れるとは、つまりはそういう事だ。身体の自由は利かないが、喋れるのであれば舌を噛み切って自害する事は可能だ。けれど、名前にはそれが出来ない。
「捨てるわけではない」マーモンはそう言った。その時点で、名前には自ら死ぬという選択肢がなくなった。随分酷な話である。このままこの男の凌辱に絶えて、殺されろというのか。
グッと、両手が名前の首を捉える。徐々に込められる力に呻き声が名前の口から洩れる。その声と息の出来ない苦しさを浮かび上がらせた表情に、グロ・キシニアは恍惚とした笑みを浮かべた。
「……は…っ…ぐ」
「良い、良いぞ実にいーい!」
「っ…う、」
「もっとだ!もっと鳴け!」
口の端から唾液が零れ落ちる。このまま絞殺されるのか。こんなに近くに居る男の顔がぼやけてきた。視界が白く霞む。最早声を出す気力もない。
ふっと名前は苦しいという感覚が途切れたのを境に、何も解らなくなった。