透明に満ちていく

「どうですか、マモちゃん」

「…甘いね」

心地よいオルゴール調のBGMが流れる喫茶店のカウンター席でココアを一口飲んだマーモンは名前の問いかけに対してそう答えた。美味しいとは言わなかったものの、間を置かずして飲まれたもう一口目がその答えだ。熱いココアに浮かび上がる二つのマシュマロ。ゆっくりと時間を掛けて溶けていくそれを、マーモンは甚く気に入ったようだった。
そんなマーモンを膝の上に乗せ、名前は上機嫌で自身が頼んだアイスティーをストローで吸い上げる。喉をすっきりと潤してくれるそれは後味に雑味もなくシンプルながら美味しい。
「…随分呆けた顔だな」ピーク時間帯が過ぎ、客が疎らなのを良い事に自らの身分を隠し別人を装って日常に溶け込むその店員から思わず素の言葉が漏れた。名前のグラスを持つ手が疾うの昔に血で染まっている事を安室は知っている。見てくれだけの綺麗な手には安室自身にも覚えがあった。
「普通を装うのって結構大変なんですよねえ」時々、境界線が分からなくなっちゃってと続けられた言葉を紡ぐ、剣呑な声色。けれど瞬きの間に鳴りをひそめたそれに安室は目を細める。

「その割には、随分とお上手なようで」

「貴方も」

「…さあ、一体何の事やら」

カラン、と来客を知らせるベルが鳴る。ちらりとそちらを見た安室は真っ直ぐこちらに向かって歩いてきた小さな存在ににこりと微笑み掛けた。

「やあ、コナンくん。オレンジジュースでいいかい?」

「うん!ありがとう、安室の兄ちゃん」

当然のように名前の隣に腰掛けた食えない小学生は無邪気な瞳の奥に隙あらば喉元に噛み付こうとする可愛らしい獣を一匹飼っている。牙も生え揃わぬこの獣は名前に致命傷を負わせる程の存在に成りはしないものの、一瞬でも油断すれば容赦なく牙を突き立ててくる危うさを持っている。
この少年もまた、名前や安室と同じく自らを装って平然と日常に溶け込んでいる一人だ。
まだ熱を持ったままのココアのカップにティースプーンを入れて混ぜれば小さく出来た渦に巻き込まれたマシュマロが呆気なく溺れ、消えていく。「まだ熱いですから、気を付けて下さいね」マーモンの小さな手にそのカップを乗せ、名前はじっとこちらを見つめる視線にやっと応えた。

「貴方にオレンジジュースを頼むいじらしさがあったなんて驚きです」

「バーロー。演技に決まってんだろ」

「抜かりないですねえ」

「…今度は何企んでんだ」

「ただお茶を楽しんでいる風には見えませんか?」

「見えねーから聞いてんだよ」

ペーパーコースターの上にオレンジジュースが置かれる。「僕も気になっていたんですよね」にこにこと愛想の良さを惜しみなく振りまきながら、安室がコナンに同調する。
「中々返事をくれない想い人を迎えに行こうと思いまして」半分まで減ったアイスティーをストローで悪戯に混ぜながら名前は薄く笑う。

「…見かけによらず随分積極的な方なんですね。そのお相手が羨ましい」

「……名前、遊ぶのはその辺にしておきなよ」

「はい。それじゃあ、そういう事ですので」

ココアを飲み切ったマーモンがふわりと浮かび、名前の肩に乗る。そしてあっという間に消えた小さな存在は、見えなくなってしまっただけできっとそこに居るのだろう。
立ち上がった名前は服を正しながら指先があるものを絡め取る。それに大きな舌打ちを溢したのは隣でオレンジジュースを啜る少年だ。「油断も隙もない方ですね、本当に」シール型の発信機を見せつけるように指先で潰して、弾く。アイスティーの中で溺れてしまったそれは当然もう使い物にならない。

「ご馳走さまでした」

「…小さなお客様にも喜んでもらえたようで良かったです」

お釣りを手渡しながらそう言った安室の言葉に、名前はにこりと笑うだけに留めた。
カラン、と再びベルが鳴る。そして入ってきた人物は出て行こうとした名前と目が合うと驚いたように声を上げた。

「名前さん…?」

「こんにちは、奇遇ですね」

大きな皿を手に抱えた毛利蘭は「わあ!お久しぶりです!」と目を輝かせて名前に詰め寄った。
ガタッと椅子が動く音がカウンターの方からして、小さな足音がこちらに向かって駆けてくる。まさかマフィアと想い人に繋がりがあるとは夢にも思わなかったのだろう。動揺するその表情を視界に収め、名前は愉しそうに口角を上げる。

「蘭姉ちゃん!」

「あ、コナンくんこんなところに居たのね」

焦る様子のコナンを見ても蘭はにこにことした表情を変えない。滅多に見る事の出来ない名探偵の狼狽えた様子は見事に名前のツボを刺激した。くすくすと漏れる笑い声にコナンは鋭い視線を向けるが当の本人からしてみれば痛くも痒くもない。
レジから出てきた安室にサンドイッチ美味しかったですと礼を言いながら皿を返した蘭に、当たり障りない返事をしながらコナンが最も聞きたい内容を安室は難なく問う。

「蘭さん、その方とはお知り合いですか?」

「以前園子がひったくりに遭った時に犯人を取り押さえてくれたんです」

「…それは凄いですね。何か武術を嗜まれている、とか?」

「確かイタリアの警備会社にお勤めなんですよね!」

蘭の言葉に淀みない返事を一つして、名前は蘭の服の裾を掴むコナンににっこりと微笑みかける。これは間違いなく牽制だ。毛利蘭が絡んでしまっては名前に迂闊に手が出せない。ぐ、とコナンは奥歯を噛んだ。
ドアノブに手を掛けた名前が振り返り安室、蘭、コナンを順に見やる。「Arrivederci」耳慣れないその単語は何となく、英語ではない気がした。意味を問おうにも引き留める間もなく蘭に小さく手を振って名前は出て行ってしまった。

「あり…?何て言ったんだろうね?」

「…Arrivederci。イタリア語でまた会いましょうって意味だよ」

「すごい。コナンくんよく知ってるね」

「あっ、えっと、この前テレビでイタリアの特集やってて…」

おろおろと蘭を躱す名探偵を視界の隅で確認しながら安室は携帯端末を取り出し、風見へと連絡を入れた。間もなく休憩を終えて梓が戻ってくる頃だ。優秀な部下がここまでやって来るまでそう時間は掛からない。早退理由をぼんやりと考えながら、安室はエプロンの紐を緩めた。



***



「降谷さん…一体これは」

「………」

苗字名前に取り付けた発信機を追って辿り着いた無人の廃ビル。外観は特に異常は見られず、人の気配どころか野良猫の一匹すら居ないようなそこは逆に不自然なくらいだった。けれどどうだろう、立ち入り禁止のガードフェンスをずらして敷地に入った瞬間、耳を抜けた発砲音。それも、一発や二発ではない。何故、立ち入るまで気が付かなかった。こんなにタイミング良く発砲音がする筈もない。
動揺を押さえながら拳銃の安全装置を外した風見を横目に、降谷はちらりとビルの外を見やった。

「恐らく、あいつらだろう」

「えっ…」

電柱の横、自動販売機の隣、曲がり角、目に見える範囲で三人。携帯を弄ったり新聞を読んでいたりとこれと言って何か怪しい動きをしているようには風見からは見えなかった。けれど、彼はこの上司を何よりも信頼している。“そう”見えているだけで、眉間に皺を寄せ風見と同じく安全装置を外す降谷には風見とは全く別のものが見えているのかもしれない。
苗字名前が所属する組織が特殊である事は風見も聞き及んでいた。あの三人もその特殊工作員なのだろう。信じ難い話ではあるが現在進行形でそれを体感しているのだ、否定の仕様がない。
バリンッ、とガラスの割れる高い音がして何かが落ちてくる。二人の傍に落下してきたのは紛れも無く人間だった。「…眉間を一発、即死ですね」仕事柄死体に慣れている彼らは声こそ上げないものの、その表情は硬い。誰がやったかなんて愚問だ。

「…行くぞ、風見。気は抜くなよ」

「はい」

発信機はこのビルの中で点滅したままだ。一歩一歩足を進めながら降谷はポアロでのやり取りを思い出す。苗字名前が発信機に気が付いていない訳がない。泳がされているのは明白だった。何の意図があって名前が降谷たちを此処に呼び出したかは皆目見当がつかないが、罠という可能性も否めない。
ビルの中に足を踏み入れれば湿った空気が硝煙を僅かに運んでくる。鼻を突く嗅ぎ慣れた鉄臭さとそれが交じり合い、じっとりと汗が出る。人の気配を探りながら風見に合図を送り、二人は階段をゆっくりと上がっていく。発砲音が段々と近づいてくる。サイレンサーを付けないのは居場所を知らせる為か。
ギリ、と降谷は奥歯を噛み締める。「…この階だな」ドアノブを握ると冷たい無機質なそれがじんわりと降谷の手に馴染んでくる。最小限の音を立ててドアを開けた降谷は風見と共に勢いよく中に入り、銃口を向けた。

「あれ、随分とお早いですね」

「…苗字、名前」

拳銃片手に物言わぬ男の胸倉を掴み上げている名前が二人に笑いかけた。その不釣り合いな笑みに背筋にゾッと悪寒が走った。この人数をたった一人で殺めたのか。彼女の周りに転がる死体を見て風見は眉間の皺を深くする。この状況で助けを乞う事もせず呻き声一つ漏らさない男も恐らくもう事切れている。

「初めまして。降谷さんの部下の方でしょうか」

「…そうです」

「一体、どういうつもりだ」

銃口を下ろす様子のない彼らを見ても名前の態度は変わらない。「武器を捨てろ」風見の言葉に小さく笑い声を上げて、名前は返事の代わりに男を放り投げた。発砲音が一つ。風見が威嚇で撃ったものだ。コンクリートを抉るそれを見ても名前が動じる様子はない。瞬きをした次の瞬間には風見の目前に名前は迫っていた。

「な、っ」

「駄目ですよ、気を抜いたら」

手に持つ拳銃は呆気なく弾かれ、名前はそのまま彼の手首を掴み同時に足を引っ掛ける。成す術なく思い切り地面に叩きつけられた風見は余りに早い挙動に息を詰めた。
「そこまでにしてもらおうか」名前の米神に降谷の銃口が向けられる。「それは勿論、もう用事は終わったので」パッと手を離して風見を解放し、名前は勢いよく後退する。手首を摩りながら立ち上がった風見は状況が分からず名前と降谷を交互に見つめる。

「風見、胸ポケットを見てみろ」

「…なっ、これは……」

指を突っ込んでみれば、指先を掠めたある筈のないもの。小さく折り畳まれたメモに、風見は目を見開いた。ご丁寧に降谷が彼女に取り付けた筈の発信機もメモに挟まっていた。
「それ、差し上げます」拳銃を仕舞いながら名前は事も何気に言い放つ。

「そこで死んでいる人たち、薬物取引の仲介で有名な組織の幹部と部下たちです。そのメモには近々イタリアと日本間で行われる大規模な麻薬取引の詳細が書かれています。どうぞ、お役立てください」

「何故これを、俺たちに?」

「ゼロに所属する貴方たちにとってこの案件が管轄外である事は承知の上ですが、私がこれを然るべきところに送りつけても彼らが迅速に動いてくれるとも思えません。けれど“私たち”を知る貴方たちからなら、確実に動いてくれるでしょう」

ボンゴレにとって、イタリアも日本も縁のある国だ。現ボンゴレ10代目は争いを好まぬ事で有名ではあるが、人身売買や薬物関係においては殊更快く思ってはいない。
「後始末をしろと言う事か」「悪いお話ではないでしょう」にこりと笑って、名前は肯定する。例え管轄外であっても、彼は愛する自国が麻薬などと言う不純物に汚染される事を良しとはしない。

「…そこに信憑性は」

「それを疑うのでしたら、お好きに。貴方たちが動かなければそれはそれで結構です。ちょっと楽したいなあくらいの考えでしたから、私たちで始末します」

風見の問いに名前ははっきりと言い捨てる。どちらがやるかの問題であって、結果は変わらない。ただ知っていて見過ごし自国の危機をマフィア如きに救われたという事実に矜持が揺らがない筈がないというのを名前は解っている。
公安を利用して大掃除をさせる名前たちのやり方は正直気に食わないが、降谷の中で答えは既に出ていた。

「風見、マトリに連絡を頼む」

「…わかりました」

「嗚呼それから、此処の掃除はこちらでしますのでご心配なく」

「…手馴れたものだな」

「ふふ。マフィアですから」

名前の頬に指先を這わせ付着した血を拭う。しかし乾きかけのそこは綺麗に拭えず、名前は擽ったいと小さく身じろいだ。
「見事な忠犬っぷりだな」「それはどうも」名前のネクタイを緩く掴み、降谷は少しだけ屈んで彼女の耳元に唇を寄せた。

「飼い主を変えてみる気はないか?」

「生憎と飼い主は生涯一人だけと決めています」

「つれないな」

くつりと耳元で笑った降谷はまだ名前を解放する気はないらしい。「それで、本当の理由はなんだ?」名前の唇をなぞる指先が逃げる事を許さない。
“何故これを、俺たちに?”その問いに対する答えを他にも持っている筈だと冷たいアイスブルーの瞳が問いかける。

「先程お答えした筈です」

「それは建前だろう」

「貴方も疑り深い人ですねえ。──まあ、強いて言うならば」

蜃気楼のように足元から名前が消えていく。それに少しだけ目を見開いた降谷はけれど動く事はせずにそのまま彼女の言葉を待った。

「美味しいココアのお礼、だそうですよ」

は、と思わずらしくもない単音が降谷の口から飛び出た。くすくすと耳元を擽る笑い声を残して名前は融けるように消えていった。

18.10.28
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