抗えきれない衝動

今日は朝から雨が降っていた。どんよりとした鉛色の空、すん、と鼻を鳴らせば独特な雨のにおい。しとしとと降り続ける雨の中、名前はマンションのベランダの柵に寄りかかるように両腕をついてじっと真下を見下ろしていた。
前日の予報通りの天気、当然傘をさしていない人間は見たところ一人も居らず、名前の目線の先には様々な色の傘が揺れている。
「黒が多いかなあ」ぽつりと漏らした独り言は誰にも拾って貰えずに雨音に融けて消える。こんな天気の日に態々空を見上げようとする人が居る訳もなく、名前は誰にも邪魔される事無く景色を堪能していた。雨の日は鳥も虫も飛べないからリビングの窓は開けっぱなしだ。彼女の背後で薄紫のカーテンがゆらゆらと揺れている。
ぽたりと水滴が前髪を伝って滴り落ちた。ベランダから身を乗り出して外を見ているのだ、濡れていない筈がない。既に名前は頭から肩までびっしょり、零れ落ちた水滴が足先も少しずつ濡らし、衣類も徐々に水気を含んで重くなっていく。なのに当の本人はそれを全く意に介さず、ひんやりとした腕に顎を乗せて上機嫌で鼻歌まで口遊んでいる始末だ。肌寒い季節ではないにしろ、長時間雨に打たれればそれなりに身体は冷える。──場合によってはそれが原因で体調を崩す事だってあるのに。
頬を滑る水滴も擽ったいとは思えど、不快には感じない。静かな雨音と車の車輪が水溜まりを弾く音、時折吹く風の音を聞くのが名前は好きだった。そんな彼女の感性は殆どの人間に理解されない。それは本人も自覚済みではあるが、他者からどう思われても彼女は一向に構わなかった。──この行為が、誰かに迷惑を掛けている訳ではないから。迷惑こそ掛けていないものの、名前のその行為に心配をしている人間が一定数居る事に残念ながら彼女は気付かない。

「バカかてめェは」

どのくらいそうしていたのか、不意に真上から降ってきた罵声と共にばさりと名前の頭に何かが掛けられる。真っ暗になった視界、聞き覚えのある声。返事を待たずしてその人物は名前が無抵抗なのを良いことにひょいといとも簡単に抱え上げた。
触れた手のひらから伝わる体温の低さに大きな舌打ちが零れる。「このバカが!」ともう一度容赦ない悪態を吐いて、爆豪は怒りに任せて勢いよく窓を閉めた。勢いがあり過ぎた所為で閉まった窓が反動で戻ってしまい、それが爆豪の苛々を更に加速させる。
上半身の殆どが濡れているこの状態のままソファに下ろす事も出来ずに、仕方なくフローロングにその身を下ろす。真っ白なバスタオルはふんわりとしていて、気に入って使っている柔軟剤の香りがする。音も気配もまったくなかった。流石はヒーロー、なんて呑気に考えていた事がバレていたのか、「ぶっ殺す」とまるで息をするように暴言が飛び出す。
許可なくこの家に出入り出来て、家主に聞かずともある程度の備品がどこにあるのか知っている。期待の新人プロヒーローとして世間から日夜注目を浴びている爆豪勝己は名前にとってそんな存在だ。

「クソバカアホ女」

「語彙力」

「あ゙ぁ?!ぶっ殺されてえんか!」

この短時間で何度暴言を吐かれたのだろう。
頭からタオルを被ったままの名前は爆豪が今どんな顔をしているのか想像しか出来ないが、大方間違ってはいない筈だ。彼は大体眉間に皺を寄せて己に寄り付くもの全てを殺しかねないヒーローらしかぬ雰囲気を醸し出している。名前を前にしてもその粗暴な態度は変わらない。けれど、そんな態度を取りながらもわしゃわしゃと髪の毛の水気を拭き取ってくれるその手が名前は好きだった。

「……んだよ、その色」

「ふふ、おそろい」

水気を吸い取ってしっとりと冷たくなったバスタオルを乱暴に剥ぎ取られると、思った通りの不機嫌そうな顔と対面する。名前の赤く色づいた瞳の色を見て、これまた予想通りの反応だと小さく笑う。
「うっ、痛い」「気色悪ぃ」顔の目の前に伸ばされた指先が名前の額を強かに弾いた。薄っすらと赤みを帯びているであろうそこを摩りながら名前は口を尖らせる。
瞳の色を自在に変える事の出来る“個性”──誰の為にも、何の役にも立たない個性だが名前は気に入っていた。
瞳の色が変わるだけでその人の印象も随分と変わる。世の中にはカラーコンタクトなんて便利なものもあるが、それに頼らなくても好きな色を思い浮かべれば一瞬で事が済んでしまう。装着する手間もないしドライアイに悩まなくて良いし時間制限もない。そして何よりも──

「好きな人と同じ瞳の色で居るの、私は嬉しいんだけどなあ」

「…だから気色悪ぃっつってんだろが!」

「そっか、じゃあ変えちゃおう」

「さっさとしちまえアホ」

「そうだなあ、あ、この色にしよう。オッドアイも素敵」

点けっ放しのテレビから流れる最近よく聴くCMソングに惹かれ、そこに映る人物を見ながら名前が言う。釣られてテレビに目線を移した爆豪は名前の言う“この色”を持つ者が良く知る人物だと気付いて三白眼をカッと見開いた。そして容赦ない力で名前の頭部を引っ掴み、抗議の声を無視して無理矢理テレビから引き離す。ついでにテレビも消し、役目を終えたリモコンは当てつけのように乱暴にソファに投げられた。
余程痛かったのか、爆豪を見上げる薄っすらと涙目になっている双眸はまだ赤いままだ。

「選りに選ってなんでコイツなんだよ!!」

「え?ショートくんカッコいいじゃない」

「ふっざけんな!変えたら即殺す」

「じゃあこのままにするね」

にこにこと満足そうに笑う名前は始めから色を変える気なんてなかった。勿論あのオッドアイの瞳が素敵である事は紛れもない事実であるが、それよりも彼女は目の前で不機嫌そうにこちらを見下ろす燃えるようなリコリスの色がとても好きだった。──口にするときっと怒られてしまうから言えないけれど。
良いように振り回されたと気付いた爆豪がそのだらしなく口元を緩める顔を強制的に歪ませようと今度は頬に手を伸ばす。しかし頬を掴んだ瞬間指先との異常な温度差にぴくりと動きを止めた。能々見ると頬は真っ白、いつもほんのり色づいている唇は薄紫に変色している。髪は拭いたものの、着ている服は上半身部分が所々湿ったままだ。今日一番の大きな舌打ちを洩らしてじろりと爆豪は名前を睨みつけた。

「さっさと風呂入ってこいや濡れ鼠が!」

「…知らないうちに帰ったりしない?」

むに、と親指と人差し指が頬を摘まむ。どうやら問いかけには答える気がないようだと悟った名前の後頭部に頬肉を摘まんでいた手が添えられる。次は頭突きだと先程のデコピンの痛みを思い返し、肩を強張らせて来るであろう痛みに耐えるべく目を瞑る。しかし与えられたのは鈍い痛みなどではなく、唇に触れる一瞬の熱だった。
薄っすらと目を開けるとじっとこちらを見つめる赤と視線が交わり身体の奥がカッと熱くなる。触れる唇も後頭部を掴む手も逃がさないとでもいうように絡められている指先も温かい。

「冷てぇ」

「…爆豪くんは、あたたかいね」

相変わらず眉間には深い皺が刻まれたままだが、名前は変わらぬ様子に安心したように息を吐く。
シンと静まり返るリビングに少しだけ強くなった雨が窓を叩く。ぱた、ぱたと不規則に奏でられる雨音が心地よい。
「好きだなあ、雨も、爆豪くんも」それを見てつい零れた言葉はばっちりと聞き取られてしまったので独り言にはなりきれなかった。「風呂場に放り込まれてェなら始めからそう言えや」痺れを切らした爆豪がドスの効いた低い声でそう言い放つ。照れ隠しが下手なんだから、と茶化させてくれる雰囲気はそこにはなかった。
(ヴィラン)も吃驚の顔つきに見慣れている筈の名前ですらあまりの剣幕に無意識に背筋が伸びる。遠慮のない力で投げられたバスタオルの塊を顔面で受け止めて、くぐもった声を洩らしながらも逃げるようにリビングを飛び出した名前の背を見つめる瞳が少しだけ柔らかくなった事を彼女は知らない。

20.10.09
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