月が満ち足りた後のこと

夜も大分深まった頃──ガチャリと控えめに玄関のロックを解除する音が響いた。一歩踏み込めばそこだけまったく別の世界のように感じるのは何故だろう。ゆっくりと閉めたドアを背に、小さく息を吐き出す。あまり感情を表に出す事のない轟の顔が心なしか疲れているように見える。
リビングには行かず、コスチュームを脱ぎながら真っ直ぐ浴室へと足を進める。今座ってしまったらきっと動けそうにない。

「…つかれた」

無意識に出た言葉に驚いたのはその張本人だ。あまり吐く事のない弱音はシャワーの音が聞こえないフリをして優しく消し去ってくれる。頭からあたたかいお湯を被りながら、いつも隣に居る彼女が居ない事に寂しさを覚えるが、寝ているところを態々起こして浴室へ連れて行く程轟は鬼ではない。汗と砂埃とその他諸々、全部が流され排水溝へと消えていく。一分でも早く寝室へ行きたかった轟は疲労を訴える身体を無視して黙々と手を動かした。
珪藻土のバスマットにぽたりと毛先から零れ落ちた水滴が落ちる。吸水力はお墨付きで、それはすぐにじんわりと余韻を残しながらも消えてしまった。わしゃわしゃと適当にバスタオルで髪の水分を拭き取り、寝間着代わりにしているハーフパンツとTシャツに着替えると、優しい柔軟剤と太陽の香りがしてホッと息を吐く。

リビングの電気をぱちりと点け、入ってすぐのリビングボードの上に置いてあるリングケースの中に鎮座している己のそれを拾い上げる。定位置となっている左手の薬指にそれを嵌めると、やっと轟はショートからただの轟焦凍に戻れた気がした。無くしてしまったら困ると仕事中はつけないようにしている為、購入してから1年以上経っているというのにまだ傷は少ない。
ウォーターサーバーから入れた水を一気に飲み干して、やっと轟は寝室に行く準備を整えた。

柔らかい間接照明のオレンジ色の明かりと、鼻を掠める畳のい草の匂い。ふたつ敷かれたうちのひとつの盛り上がりを見て、轟は表情を和らげた。傍に腰を下ろすと規則正しい寝息が聞こえてくる。布団から飛び出した手の指には轟がしているものと同じデザインのシルバーリングが嵌められている。
「名前さん」折角寝ているのに彼女の眠りを妨げてしまう行為に少しの罪悪感が過るが、それでも今無性に彼女に触れたいと思った。指先を絡めながら手をそっと握ると、風呂上がりの轟の手よりもあたたかいそれがじんわりと手のひらに伝わる。
ぽたりと拭き切れていなかった水滴が名前の頬に滑り落ちて、その冷たさに瞼をそっと震わせ、閉じられていた瞳がゆっくりと轟を映し出す。「おかえりなさい」寝起きの掠れ声でふにゃりと笑った名前に、酷く満たされている自分が居る。

「…悪ぃ、起こした」

「いいの」

でも、と名前は潜り込ませていた手を布団から出してそっと轟の髪に触れる。「またちゃんと拭かなかったでしょう」まるで小さな子ども相手のその物言いに「ああ」と轟は悪びれる様子もなくそう答える。
名前は両の手を合わせて個性を発動させると少しだけ開いた窓から呼び寄せられた夜風が優しく部屋の中に入ってくる。欠伸を噛み殺している間にふわりと真新しいタオルが運ばれてきて、それを受け取ると上体を起こした名前が小さく手招く。素直に頭を差し出したと同時に柔らかなタオルが被せられ、優しく髪の毛の水気を取っていく。
それが酷く心地よくて、やって貰いたくてワザと中途半端にしか拭かなかったと言ったら、彼女は怒ってしまうだろうか。答えの分かり切っているその疑問に思わず轟の口元が緩む。こうして文句の一つも言う事無く甘えさせてくれる彼女に、どんどん我儘になっている自覚はある。きっと名前はそれすらも笑って許してくれるのだろう。

「拭き残しはある?」

小さく首を振ると、それを合図にタオルがそっと取られ、指先が赤と白の境目を優しく梳く。それがどうしようもなく好きで、遠くから誘ってくる眠気に頷きそうになって轟は薄っすらと目を開ける。──まだ、もう少し。
「おつかれさま」と控えめな力で抱きしめられ、背を撫でられると溜まっていた疲労が逃げていくようだった。実に単純ではあるが、轟にとっては大事な事だ。シャワーでも流せなかったものを、名前はいとも簡単に遣って退けてしまう。
手首を掴んで後頭部に手を回し、少し体重を掛けるだけで彼女の身体は呆気なく横たわる。首筋に鼻を寄せると同じシャンプーの香りが彼女の髪の毛からして、そんな些細な事に未だどきりとする。女性らしい陶器のようにハリのある滑らかな肌はいつまでも触っていたいし、「焦凍くん」と名前を呼んでくれる唇もすべてが愛おしい。

「疲れているんじゃないの?」

「…ああ。でも、名前さんに触れたい」

ダメか、と唇を耳元に寄せてそう囁くと彼女の身体が小さく跳ねる。聞いておきながら首を横に触れない状況を作っている意地の悪さは疾うに自覚済みだ。返事をしようと口を開いたタイミングを逃さず唇を重ねる。何と言おうとしていたのか気にはなるが、今は何よりも早く彼女が欲しかった。

20.08.28
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