人魚の入水

ちゃぽん、と水が滴り落ちる音が木霊する。檜の香る浴室内ではどんな物音──吐息ですら、呆気なく見つかってしまう。
本来風呂とは心身共にリラックス出来る場所である筈なのに、浴槽に肩まで浸かる名前は現在進行形で身を固め、気を張り詰めていた。
何の前触れもなく節榑立った指先がつう、と名前の肩を這う。それに息を呑んで耳まで赤く染め上げて勢いよく振り返る。彼女の後ろで何食わぬ顔でにこにこと微笑む男こそ、彼女がリラックス出来ない原因そのものだった。
「ふ、風さん…」どんなに囁くような声でも、浴室内では酷く鮮明に聞こえる。
「どうしました?」必要以上に近い距離の中、狙って耳の近くで応えるそれが悪戯に鼓膜を揺らす。
身体にタオルを巻きながらの入浴は立派なマナー違反であるが、そうせざるを得ない状況に名前は追い込まれていた。胡坐をかいて浴槽に浸かる風の上に問答無用で乗せられ、逃げようとする彼女の腹に片腕がガッチリと纏わりついて離れない。力で押さえつけられてしまっては万に一つも勝ち目はない。名前は頭を抱えた。

「ど、どうしてこんな事に…」

「一緒に入るのも、偶には良いでしょう」

ね?と同意を求められても、素直に頷ける程脳内お花畑ではない。羞恥心の方が遥かに勝っている名前は風の顔を直視する事すら今は恥ずかしくて堪らない。
入浴剤を入れた事により透明度がなくなり、白濁したとろみのある湯は露出した部分しか見えず、そのお蔭で名前はギリギリのところで平常心を保てている。それでも背に当たる自分とは違う筋肉質な胸板と腹筋の感触が自身の心拍をどんどん上げていく。くすくすと控えめな品の良い笑い声が響き渡る。

「からかうのはやめてください!」

「怒らせてしまいましたか?」

名前、と耳元で優しく名を呼ぶ声。内側を擽るようなその声色に名前は唇をきゅっと噛み締める。しっとりと水分を含んだ髪を優しく梳く指先が愛おしい。
「…ずるいです」諦めたように身体の力を抜いた名前の肩に顎を乗せて風は「意地悪が過ぎましたね」と少しだけ反省の色を見せた。

「嫌いになりました?」

「………」

「名前?」

「…嫌いじゃ、ないです」

ずるい、本当にずるいと遣る瀬無い思いは湧き上がる湯気と共に昇っては消えていく。
そんな顔をされて嫌いだと言える訳がない。風自身も解ってやっているのだから尚の事質が悪い。
すん、と鼻を啜れば鼻孔を擽る檜の匂い。ホッと肩の力が自然と抜ける。気の緩みきったその背後で、悪戯心を燻ぶらせる男が静かに行動に出た。
ぬるりと生暖かい何かが耳を這う。ひい!と凡そ年頃の女が出すようなものでない叫び声が名前の口から飛び出した。かぷりと耳たぶに歯を立てられて先程の正体が彼の舌だと知る。瞬間、火を打ったように顔が熱くなるのが分かった。

「風さん!な、なにを…っ」

「ふふ、かわいらしい声ですね」

「ひ、…や、やめ…!」

「もっと、聞かせてください」

ちゅう、とリップ音がダイレクトに耳を刺激する。今自分がどんな顔をしているのか、見ないでも解った。この体勢では風からは名前の表情は見えない。唯一そこだけが救いだった。
身体の奥から熱が湧き出てくるようだった。ぬるりと這う舌は時折耳の穴を軽く突く。そして感じる風の吐息がなんと煽情的なことか。下腹部が切なそうに鳴く。それに気づかぬふりをして、名前は口元を押さえる。

「だめ、聞かせてください」

「ん、っ!や、ぁ」

「名前」と熱い吐息と共に呼ばれる名前に頭の奥がくらくらとする。──正常な判断が出来ている今のうちに、一刻も早く浴室から出なければ。どんなに小さな声でも響いてしまう此処に居る事にこれ以上耐えられそうにない。
腹部に巻き付いていた手が悪戯に巻いているタオルをなぞる。水気を含んで肌にぴったりと張り付くそれは、大事な部分を隠そうとしているだけなのに酷く蠱惑的に映る。
つつ、と指先が臍を通過し、ゆっくりと上に滑っていく。焦らすようにゆったりと時間を掛けて辿り着いた胸の膨らみに触れると、面白いくらいに名前の身体が跳ねる。
ここで食べてしまおうかと良からぬ事を風が考えたのと名前の身体がぐったりと力を抜いたのは同時だった。のぼせてしまったのか、風の肩に頭を預けて「うう」と目を回している。どうやら無理をさせてしまったらしい。素早く彼女を抱き上げた風は頬に張り付く髪を払って申し訳なさそうに眉を下げる。
名前が目を覚ましたら素直に謝ってからこの続きをさせてもらおう。
いつもにこにこと柔和な笑みを湛え優しそうと他者から評価されるこの男は、意中の女性の前では何て事はない、ただの欲望に忠実なひとりの人間に過ぎない。

20.09.13
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