「あ…」

ぷつん、とそんな幻聴じみた音が聞こえた。皮膚の表面に亀裂が入り、そこからじわじわと血が滲む。やがてそれは玉を作りぽたりと重力に従ってカーペットに小さな染みを作った。時間差で痛覚が思い出したように報せてくる。切り傷は地味に痛いから嫌いだ。
それにしても、と名前は傷をこさえる原因になったナイフを再び拾い上げてじっと見つめる。細部にまで見事な装飾が施されたそれは特注品なのか、見た目に反して驚くほど軽い。刃の部分に軽く触れただけでこの切れ味、手入れも行き届いているようだった。
彼の商売道具をこんなにじっくりと見たのは初めてだった。普段は危ないからと触れさせてももらえない。
今の状況からして彼の判断は正しかったと言えるだろう。そんなつもりはなくとも身を以てその切れ味を体験してしまった名前は、未だじんじんと痛みを主張する指先を見つめ、己の愚鈍さに溜息を吐いた。

「うしし、なーにしてんの」

「ベル」

肩に僅かに重みを感じたかと思うと、伸びてきた手がナイフを名前の手からそっと攫った。こうなるまで全く彼の気配に気付けなかった。本人は意識してはいないようだが、これはある意味職業病なのか。
最初はそれに驚いて悲鳴に近い声を上げていたが、今では肩を揺らすだけに留められるようになった。心臓は大きく脈打つがそれでも名前にしては大きな進歩だった。

「勝手に触ってごめんなさい」

隠そうにも怪我をした手をがっしりと掴まれてしまった名前に逃げ場はない。
長い前髪に隠された瞳がどんな感情を浮かべているのか直視せずとも解った。眉を下げて素直に謝る名前に悪態の一つでも吐いてやろうかと口を開くが、彼の意に反して何一つ音は出てこない。本当に甘くなったものだと軽く息を吐いて、ベルフェゴールは一旦彼女から身を引き、取り上げたナイフを素早くしまって部屋の棚から救急セットを引っ張り出した。
状況説明をされずとも何故こうなったのか彼には何となく心当たりがあった。憂さ晴らしにカエルの被り物をした可愛くないコウハイをサボテンにしたのは記憶に新しい。恐らくその時に投げ捨てられたうちの1本を彼女が見つけ拾ったのだろう。
普段から怪我をしないようにと万が一を考えて触らせないようにしてきたが、まさか本当にこんなにもあっさりと指を切るとは──少なからず自分にも落ち度はある為ベルフェゴールは彼女を責める事はしなかった。

「わわっ!」

座り込んだままの彼女をひょいと抱え上げ近くのソファにおろし、乱暴に救急セットを開ける。問答無用で消毒液を吹きかけると沁みたのか小さな呻き声が上がる。
これくらいは仕置き代わりに我慢してもらおうとベルフェゴールは涼しげな顔で聞こえないフリをして手際よく処置をしていった。

「これに懲りたらもう触んなよ」

「はい…」

しょんぼりと肩を落とす名前を見て、透かさずベルフェゴールの指先が額を弾く。
あうっ!と予想通りの反応を示した彼女に「うしし!」と独特の笑い声を漏らしてぱたんと救急箱を閉じた。
遠くの方で何かが割れる音がする──窓ガラスか何かだろうか。次いで響いた「痛ってぇなあ!!何しやがる!!」という聞き覚えのある怒声。

「ししっ!またやってら」

「だ、大丈夫でしょうか?」

「知らね。いつもの事だし」

怪我しようが死のうが知った事ではないと、ベルフェゴールはまるで興味がないのか考える素振りすらなくそう言い放つ。処置してもらった指先にそっと触れ、名前は小さく笑う。彼女が言いたい事をいち早く察したベルフェゴールは口が言葉を紡ぐ前に手をそっと伸ばして乱暴に頭を撫でた。

Guidalesco

20.03.10

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