ぐしゃり。少し手に力を込めただけで、手中の栞は瞬時にその姿を変える。ただの塵と化したそれが床に散らばる様を見てすっと胸が軽くなった。傍らには粉々になった陶器の破片が散乱している。それを更に踏むと、パキッと砕ける音がして、言い知れない高揚感が迫り上がってきた。耐え切れずに、クツクツと肩を震わせて思い切り笑う。ここには誰もいない。だから誰も気づかない。誰も知らない。壊していないものは、あと一つだけ。これを壊せば、きっとあの人は目が覚める。この前は失敗してしまったけれど、今度こそ。絶対に、壊してあげる。
真っ白いシーツを染める赤を思い、胸が高鳴る。あれさえ居なくなれば、またあの人はきっと戻ってきてくれる。帰ってきて、愛しい人。大丈夫、要らないものはきちんと片付けてあげる。

「だって、それが私たちの仕事だもの」

きらりと輝きを放つナイフを愛おしげに撫でて、“彼女”は踊るように軽い足取りで部屋を出て行った。


面は近い


何度も何度も足を運んだ部屋だから、足取りに迷いなんてない。途中すれ違った仕事仲間に、「あら、今日は何時にも増してご機嫌なのね」なんて言われた。「ええ、今日は特別な日になるから」と飛切りの笑顔でそれに答えれば「そう。素敵な日になるといいわね」と笑い返して、名前も朧げなその仕事仲間は自分の持ち場である部屋に姿を消した。
エプロンに忍ばせたナイフを愛おしげに撫でて、少しだけ歩調を速めて私は目的地へと急ぐ。ちらりと腕時計を確認する。まだ、大丈夫。きっとあの子はベッドの中でぐっすりな筈。そこにナイフを突き立てた様を想像して、私は思わず手で口元を覆った。そうでもしなければ笑い声を漏らしてしまう所だった。怪しまれてはいけない。幸いにして、幹部の姿はない。彼らにさえ気づかれなければ、大丈夫全てが上手くいく。
こつりと歩みを止める。ひんやりと冷たいドアノブに手を掛けて、真っ暗な部屋へと足を踏み入れた。起こさないように、なるべく気配を消して。仮に起きてしまっても、「よくお眠りになっているようでしたので、起こしてはいけないと思いまして」と笑顔を張り付けて少しだけ申し訳なさそうに言えばどうとでもなる相手。何も危惧する事はない。警戒心の全くないアレは、疑う所かきっと労りを含めた言葉を私に掛けるだろう。ギリ、と無意識に歯を噛みしめる。気に入らない、何もかも。何故あんな女が。滲み出る殺意にもアレは気づかない。一般人なんて、足手まといなだけだ。弱く守られるだけの存在のどこか大切だというのだろう。アレは、あの人にとってただの足枷でしかない。
私はナイフを取り出し握りしめる。切っ先が下に来るように持ちかえてベッドに片膝をついた。一呼吸だけして、意を決して私は両手で柄を握りしめて膨らんだそこを一気に突き刺した。

死んでしまえ。お前など、要らない。あの人に、貴女は不釣り合いよ。

二度、三度と刺しているうちに、ある違和感を感じて私はピタリと動きを止めた。……違う。ごくりと息を呑んで、私はナイフから手を放した。違う、この手ごたえ、は人間のものじゃ、ない。どっと汗が噴き出した。ナイフの刺さったままのそれを震える手で引きずり出すと、やはりそれはあの子ではなく、丸められた毛布だった。
弾かれたようにベッドから飛び退き、一目散に部屋を出ようとする。スパッ、という音と、何かが転がったような重い音が耳を掠めたのはその時だ。

「え、あ……?」

何が起こったのか、分からなかった。足先に何かが当たる。そっと目線を下げて薄闇の中目を細めて凝視すると、そこに落ちていたのは、手首だった。見覚えのある腕時計がついている。

それは紛れもなく、私の左手だった。

「あああああああああ!!」

ガクン、と足に力が入らなくなる。震える右手で不自然に切れた左手があった場所を押さえ、訳が分からず私は襲い掛かる痛みに悶え、息衝く。なんで、私の手が。
カーテンで閉め切った薄暗い部屋を涙が滲んだ目で茫然と見ていると、きらりと何かが光った。息も絶え絶えに血まみれの右手でそっとそれに触れると、ぬるりと粘ついた液体が手についた。それは、血のついたワイヤーだった。途端、自分でも全身の血の気が引いていくのが分かった。「うししっ」愛しい悪魔の笑い声が聞こえる。

「ベ、ルフェゴール、さま」

「なあ、今どんな気分?」

「な、なぜ、どうして貴方が……」

いつの間にかドアが開いており、背を預けてにんまりと笑うベルフェゴール様が居た。動揺しつつも精一杯の声量で言葉を紡ぐが、ひゅんと風を切ったナイフに掻き消されてしまった。
鋭い刃が、容赦なく私の腕を斬りつける。舞う鮮血と、痛みに耐えきれずに漏れる哭声。頬を濡らすのが己の涙なのか、将又血なのか私には確認する術も拭い取る余裕もなかった。
コツ、コツ、コツ。一定の靴の音は真っ直ぐ私の所に向かってきた。震えが止まらない。コツン、と止まった足音。真っ黒なブーツの爪先が見えたと思ったら、それは軽快な音を立てて私の頬を蹴り上げた。抵抗など出来るわけがない。されるがまま無様に声を上げて床に倒れ込んだ。背を、容赦ない力で踏まれる。口の中が鉄の味でいっぱいになる。ペ、と私は抜けた歯を吐き出した。唇も切れているようで痛い。
最早喋る事すら困難な私を踏みつけながら、ベルフェゴール様は静かに口を開いた。

「オレの質問に答えないとか、いい度胸してんじゃん」

「べ、…ル……ざ、ま」

「聞こえねーよ」

「あ、が…ッ、」

「なあ、今どんな気分?」

苦しい。踏みつけられる度、背骨が悲鳴を上げる。髪の毛を鷲掴みにされ、無理矢理顔を上げさせられた。目の前に突き出されたのは、陶器の欠片と、破れて皺くちゃになった栞。
私は観念して目を閉じた。この人の笑い声がした時点で、私は死を覚悟していた。逃れられる訳がない、逆らえる、訳がない。死は決定事項だった。けれど、楽には殺してもらえない。頬を張られて、私は嬲り殺される恐怖に震えあがった。

「誰が寝て言いっつった?」

「う、っ」

「ししっ!楽に死ねると思うなよ?…オレさ、結構マジで怒ってんだよね」

髪を鷲掴まれたまま、鳩尾に膝蹴りを一発。一瞬呼吸が出来なくなり、胃液がこみ上げてきた。それを狙ってか、タイミングよく手が放され頭が床に叩きつけられる。嫌な臭いが立ち込める。口元を拭う程の体力は残っていなかった。地獄は、まだ終わらない。

「おい、ブス。気まぐれに一回抱いてやったくらいで調子乗んじゃねーよ。ただの使用人の分際で、お前、誰のものに手ぇ出したか分かってんの?」

「べ、ルっ様……わ、だし、は…っ!」

「うるせーよ」

眼球に、ナイフが突き立てられた。痛みとベルフェゴール様の笑い声が脳内を駆け巡り、訳の分からない音が口から洩れた。まるで獣の雄叫びだ。どんなに声を上げても、誰も来ない。誰も、この痛みから解放してくれない。首元に、まるでネックレスを掛けるように巻きつけられたのは一本のワイヤー。それはまるで生きているかのようにじわじわと締め付けてくる。
終焉が、近い。最早私は声を発することすら叶わなかった。無様に床に伏せる私に、抑揚のない声が突き刺さる。

「死ねよ」

あれを傷付ける者は、誰であろうと許さない。あれを傷付けていいのは、泣かせていいのは、自分だけだ。

ゴトリと、胴体から離れた“それ”が虚しく転がる。それを無情にも蹴り飛ばすと、まるでサッカーボールのようにゴロゴロと転がって壁に当たった。

「気は済んだかぁ?」

何時から見ていたのか、ドアに背を預けたスクアーロが顔を歪めながら問う。見ていて気持ちが良いものじゃないのは誰も同じだった。

「名前は?」

「まだ寝てるぜぇ」

「あっそ。じゃ、オレ部屋行くから後片付けヨロシク」

「…随分とご執心じゃねえかぁ」

ハッと嘲笑と含めた声色でスクアーロが言い放つと、「まーね」とベルフェゴールは特に気分を害するでもなくごく自然にそう答えた。てっきりナイフの一本でも飛んでくるのではと思っていたスクアーロは思わぬ回答に目を見開く。そして、彼の足もとに落ちている残骸に目を向けた。
花瓶も栞もボールペンも、彼女の部屋から忽然と姿を消した物全ては、ベルフェゴールが彼女に贈ったものだった。「これ、ベルから頂いたんです」と嬉しそうに話す彼女を見たのは、つい最近だ。
彼女は、物がなくなった理由も、自分が命を狙われた理由も、狙った人間が誰で如何なったのかも、一生知る事はないだろう。
それでいいと、スクアーロは思った。教えたところで、何も変わらないし、何の意味もない。寧ろ、彼女は悲しむだろう。自分の為に彼が人を殺めた事に。だから、彼女は何も知らなくていい。
ナイフを仕舞ってベルフェゴールはもう用がないとでも言うように無言で踵を返す。入れ違いで入ってきた数人のメイドに、スクアーロは面倒臭そうに言い放った。

「名字名前に手ぇ出すのは止めとけぇ。“こう”なりたくなかったらなぁ」


ただ彼に愛されたかった女は、愛しい彼の手によって、ただの塵になった。


その目から涙を流させるのも、それを拭うのも、自分以外は許さない

11.12.11

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