一瞬、自分の身に何が起こったのか、名前は理解出来なかった。視界がぐにゃりと歪み、体が傾く。まるでスローモーションのようにゆっくりと落ちていく感覚に浸りながら嗚呼、自分は階段から落ちているのだとまるで他人事のように思う。
背中が熱い。その熱で、誰かに後ろから突き飛ばされたのだと知った。その熱に共鳴するように、包帯の巻かれた指先の傷が疼いた。見えない悪意が、殺意に変わった瞬間だった。
もう駄目だと、彼女は思った。打ち所が悪ければ死ぬかもしれない。例えそれを回避出来ても、無傷では済まされない事は分かっていた。彼らのように運動神経が良ければ、怪我なぞせずにうまく着地出来ただろう。けれど、彼女にはこの状況を甘受するしか道はなかった。
来る衝撃に耐えるように、名前は歯を食いしばってぎゅ、と目を瞑った。全身を包み込んだ熱は、衝撃で感覚が麻痺したからそう感じたのか、将又自分の妄想なのか定かではないが、目を開けて確認することは適わなかった。


の底に在るもの


真っ暗な闇の中、青白い手が伸びてきた。その二本の手は螺旋状にゆらゆらと伸び、名前の体を拘束する。やがて首へと辿り着いた両手は長い爪を柔らかな皮膚に食い込ませて死へと誘う。徐々に力が強くなって、呻き声とも悲鳴とも取れない中途半端な“音”が口から漏れ出す。

あんたなんか、要らないのよ。

それは、彼女が一番怖れていた言葉だった。鼓膜が震えた。心臓がきゅ、と収縮して苦しかった。凍てついた氷のようなその声は、幻聴か否か。苦しい。早く、楽になりたい。
まるで死人の手のように冷たいそれを視界に入れながら、名前は諦めたように抵抗するのを止めて目を閉じた。真っ暗になった視界で彼女を襲ったのは、言い知れない孤独感だった。
「名前、」とふいに名を呼ばれた。知っている声だった。けれど誰かは思い出せない。それに導かれるように、名前はそっと目を開けた。
現実なのか夢なのか、名前には判断出来なかった。けれど、こちらに伸びてきた手を視界に入れた瞬間、彼女はひっと息を呑んだ。それが“誰の手”なのか、今の彼女にとってはどうでもいい事だった。本能のままに、ありったけの力を込めて捕まえようとするその手を振り払った。パシン、と乾いた音が耳に残った。

「…名前?」

薄らと赤くなった己の手を茫然とした様子で見つめて、ベルフェゴールは彼女の様子が可笑しい事に気が付いた。
身を起こした彼女は、シーツをきつく握りしめ、血の気のない唇をぎゅ、と噛み締めて震えていた。何時も薄桃色に色付いている頬は、驚くほど真っ白だった。目には恐怖と拒絶の色が濃く浮かび上がり、目線を合わせようとしてもお互いの目が合うことはない。名前は、彼を見ているようで見てはいなかった。見えない何かに怯え、それから逃れようとしている。ベルフェゴールは安心させるように、今度はそっと手を伸ばしてみた。名前、と名前を呼びながら。
しかし、そんな彼を、彼女は受け入れなかった。再び叩かれた手を捻って彼女の手を少しだけ強引に掴むと、「ひ、っ」と、彼女から聞いたこともない声が漏れた。

「名前、落ち着けって。なあ、オレが分かる?」

「や、っ…!触らない、で!」

「名前」

「やだっ…!やめて、離して…!や、ぁ…ッ」

「名前!」

「…っ、う…っく」

怖い、止めて、離して、と唇を震わせてそう叫ぶ彼女は、一体何に怯えているのか。錯乱状態の彼女にはどんな言葉を掛けても無駄だった。
ぽたぽたと、溢れた涙が頬を濡らしてシーツに染み込んだ。彼の声は、今の彼女には届かない。ベルフェゴールはぎゅ、と唇を噛んだ。
階段から落ちた彼女を受け止めたのは彼だった。任務から帰った彼はスクアーロから自分が不在の間に彼女に何があったのかを聞かされ、名前の部屋に行く途中だった。落ちてきた彼女を抱き込むように受け止め、名前を呼びながら怪我をしていないか確認したが既に意識はなく、こうしてベッドに運んで、目覚めたと思ったらこの状況だ。名前のこの状態から、彼女がただ単に足を滑らせて階段から落ちたという訳ではない事は明白だった。


「──名前」落ち着かせるように静かに名前を呼び、掴まれた腕を振り解こうと暴れ、泣きじゃくる彼女を最低限の力で引っ張る。逃げ出さないように抱き込んで、彼女の背中に手を這わせ、名前を呼びながらゆっくりと上下に摩る。それでも、彼女の震えは止まらなかった。
吃逆を上げて泣く彼女は、未だ彼の存在を認識していない。淀んだ瞳はただ迫りくる恐怖に怯え、それから逃れる術を持たないが故に、まるで底のない沼のように彼女をじわじわと飲み込んでいく。少しだけ抱きしめる力を強くすれば、その拘束に耐えられなかったのか、名前は彼の腕から抜け出そうと必死になる。

「や、だっ!」

「─名前、」

「や、っ…おねが、…殺さ、なっで……ッ」

「……っ」

「こわ、い…!」

シィーッ、と名前の耳元で彼は低く囁いた。怯えきって爪を立てる子猫を落ち着かせようとするかのように。ゆっくりと背を撫ぜ、何度も囁きながらそれを繰り返す。そうしていく内に、徐々に名前は体の力を抜いていった。頃合いを見計らって、ベルフェゴールはそっと抱きしめる力を緩めた。
俯く彼女の頬を両手で優しく包み込んで、顔を上げさせる。真っ白だった頬は泣き過ぎて色付き、熱を孕んでいた。目も腫れて悲惨な事になっていた。
「名前」とベルフェゴールは目線を合わせて一音一音、言い聞かせるように名を紡いだ。瞬きをした後、名前は小さく息を吐き出した。やっと、彼女はその瞳に彼を映した。

「オレが分かる?」

「ベ、ル…?」

「ん、そう。お前中々気付かねーんだもん。王子待ちくだびれた」

掠れ声に苦笑を漏らして、彼は漸く肩の力を抜いた。再び溢れ出た涙が頬を伝う。それを指の腹で拭い取ってやれば、彼女は耐え切れずに彼に抱き着き、ぐず、と鼻を鳴らした。そんな彼女の背をぽんぽんと軽く叩いてあやす彼の表情は、先程とは比べ物にならない程柔らかなものだった。

「もう、怖くねーだろ?」

こくり、と頷いた腕の中の存在が酷く脆く、愛おしいと改めて感じた彼は、そのぬくもりを逃がすまいと思い切り抱きしめた。
「ベル…くるしい」とくぐもった声でそう訴える彼女の声を、この時ばかりは聞こえないフリで貫いた。

11.08.23

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