最近、身の回りの物がよく無くなる。それはいつも使っていたボールペンであったり、本の栞であったり、部屋の花瓶であったりと様々だ。ボールペンなら使ってどこかに置き忘れた、というのも考えられるが花瓶が部屋から忽然と姿を消すというのは明らかに可笑しい。栞に関しても、挟んだ本はなくなってはいない。栞だけ、ないのだ。共通する点は、彼女がそれらをとても大切にしていたという事。一体、何処に消えてしまったのか。大切にしていただけに、なくなった時のショックは大きい。
ふとテーブルにぽつんと置いてある本が目に入る。昨日から読み始めてそのままにしてしまっていたと思い出して気晴らしに本でも読もう、と名前は可愛らしい扉絵のそれを手に取った。その本は童謡集で、少しだけイタリア語が読めるようになった彼女にとってそれは難しすぎず、楽しく勉強出来るお気に入りの一冊だった。無くしてしまった栞の代わりに挟んだ新緑の葉を探して、名前はそっと本を開く。少しだけ不自然に癖のついているページを見付けてここだと挟んだ栞を抜き取ろうと手を出した時だった。指先を刃が掠めた。

「…え、っ」

バサッと本が手から滑り落ちる。右手の人差し指から伝った鮮血が、本と床に小さなシミを作った。どくり、と心臓が脈を打つ。それに合わせて指先からぼたぼたと血が滴る。深く切ってしまったのか、血は止まることなく裂けた皮膚から滲み出る。まるで足枷を嵌められたかのように、足を動かそうとしてもぴくりともしない。指先が、熱い。
ひゅ、と息を飲んで、名前は茫然と己の指先を見つめていた。
どのくらいそうしていたのか分からない。けれど、ノックと同時に荒々しく開けられたドアの音と、入ってきた人物の声を聞いて、名前はやっと指先から目を離す事ができた。

「ゔお゙ぉい!入るぞぉ!」

その声を聞いて、先程は動かそうとしても動かなかった足に今度は力が入らなくなり、崩れ落ちるように名前はぺたりとその場に座り込んでしまった。

「スク、アーロ、さん…」

「名前?そんな所で何して──」

ぴたりと、歩みを止めたスクアーロは言葉を紡ぐのを止め眉間に皺を寄せる。そしてずかずかと大股で名前のもとへと歩いて行き、片膝をついて無理矢理顔を上げさせた。触れた頬は冷たく、色を失い青白い。血の気を失った唇が、「スクアーロさん」と小さな音を発した。真っ白い手を伝う毒々しい赤が、スクアーロの目に映った。

「…取り敢えず治療が先だぁ」

「あ、の…ごめんなさい」

「……」

それが迷惑を掛けてしまう事への謝罪であるとスクアーロはすぐに気付いた。しかしそれに返事をする事なく、黙ったままスクアーロは名前を抱える。今の状況からして、彼女が一人で歩くのは難しいと判断した為だ。無論、それは間違ってはいなかった。彼女の足は未だに言う事を聞かず、力が入らない。
大人しく横抱きにされた彼女は、スクアーロの服に血が付着しないようにと片手を覆う。「余計な事を考えるんじゃねえ」と間髪容れずに降ってきた言葉に、名前は堪らず目を閉じた。
きっと今謝罪の言葉を口にしたら、彼はもっと怒るのだろう。


混沌のに溺れる


「落ち着いたかぁ」

「……は、い」

真っ白い包帯が巻かれた人差し指を見つめたまま、力なく名前は答えた。その目には混乱と戸惑いの入り混じった複雑な色が浮かんでいる。二人分の重みを抱えたソファーが軋んだ音がやけに静かな室内に響いた。「スクアーロさん」と先程よりは幾分か顔色が良くなった名前が彼を見据える。彼女が何を言いたいのか、スクアーロは何となく理解していた。そして先に言っておくと、それに是と答える気は毛程もない。

「なんだぁ」

「言わないで、もらえませんか」

誰に、と名前は言わなかった。けれど、誰に、と聞き返す程スクアーロは愚かではなかった。

「心配、掛けたくないんです」

「隠してどうこうなるモンじゃねえだろう」

「……でも、」

「隠したところで、その指の言い訳はどうすんだぁ?アイツだってイかれちゃいるが馬鹿じゃねえぞぉ」

「…今、ベルは──」

「任務で出払ってる」

「そう、ですか…」

俯く名前を見て、彼は改めて彼女が一般人である事を実感した。高が指を切られたくらいで顔が真っ青になってしまう程、名字名前という人間は酷く脆い。そして突きつけられた見えない悪意に、どうしようもなく怯えている。彼女は、人を殺す所か傷つけた事もない、ただの一般人だ。そのただの一般人が、今のこの状況に絶えられる訳がない。怖い、助けてと悲鳴を上げる彼女の心の声が聞こえてくるようだった。
「日本に帰りてぇか」ぽつりと呟いた問いかけに、ぴくりと名前の肩が跳ねた。我ながらくだらない問いかけだと、スクアーロは嘲笑を漏らした。連れてきたのは他でもない自分だ。それに、仮に名前が「帰りたい」と言ったところで、彼が彼女にしてやれる事は何もない。

「分かり、ません」

「……」

「今自分がどうしたらいいのか分からないんです」

「……」

「私は、此処に居て、いい存在なのでしょうか」

「…どういう意味だぁ」

「此処での私はただの“異物”でしかありません。ただ居るだけの存在など、邪魔なだけです。違いますか?」

「……」

「私の居場所はここじゃないと、言われたような気がしました」

包帯の巻かれた指先を見つめて、苦しそうに彼女は笑った。離れるなと言ってくれたベルフェゴールの言葉に、彼女は甘え過ぎたのだと言った。
何かが詰まったかのように喉の奥が圧迫されて苦しい。鼻の奥がツンとする。ああ、泣いてしまうのか。また、迷惑を掛けてしまう。名前の意に反して涙腺は緩む。目にジワ、と溜まったものを消し去ることはできなかった。薄らと溜まった涙は止まる気配がない。やがて目を瞬かせるとぽたりと滴が落ちた。それを合図に、涙はどんどん頬を伝って流れ落ちる。彼が息を呑んだのが空気を通して伝わってきた。彼には面倒を掛けっ放しだ。
このまま彼が呆れて部屋を出て行ってしまっても、名前は構わなかった。けれど、何分経っても一向にスクアーロが出ていく気配はない。嗚咽を噛み締めていると、ぽんと頭の上に大きな手が乗せられた。

「我慢すんじゃねえ」

「…っ」

「それと、変に自分を追い込むのはやめろぉ。本当に邪魔ならてめえは疾っくにボスにかっ消されてるぜぇ」

「……っ、く」

「てめえはてめえらしく、してればいいんだぁ」

「………っ」

今日だけだからなぁ、と強引に引き寄せられる。涙で服を汚してしまうと名前が距離を取ろうとするが、ぎゅ、と逃げないように加わった力には敵わなかった。背を撫でる手は温かい。それに誘導されるように、再び涙が溢れた。腕の中で静かに泣く彼女の背を撫でながら、スクアーロは目を伏せた。女の涙は嫌いだった。それは鬱陶しい以外の何物でもない。けれど、目の前で押し殺すように唇をぎゅ、と噛みしめて泣く彼女に、泣くなとは言えなかった。らしくない事を言って、今のこの状況だ。本当に、らしくない。

「ごめん、なさ、い…っ」

涙声でそう漏らした謝罪は、誰に、何に対してのものなのだろう。

11.08.09

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