「手、貸して」

それは、彼の単なる気まぐれから始まった事だった。


unghia


ぱちん、ぱちん。そんな音を聞きながら、名前はソファーに大人しく座って隣に座る彼に左手を差し出していた。ぱちん、と音を立てて伸びた爪が次々とカットされていく。
名前の左手を掴むそれは、彼女のとは違い一回りも大きく骨張った、少しだけ体温の低い手だった。薄らと浮き出る血管に、思わず目が行ってしまう。
手を貸せと、数十分前に爪切り片手にそう言って、それからベルフェゴールは名前の爪を切るのに夢中になっている。名前が時折話しかけても「んー」と曖昧な返答をする辺り、話の内容はこれっぽっちも彼の耳に届いていないに違いない。爪切りを持った王子が女の爪を切る、だなんてシュール過ぎて笑えない。
ぱちん、ぱちんと切られていく爪とベルフェゴールの楽しそうな顔を交互に見て、名前は苦笑を浮かべる。爪を切るという行為は、珍しい事でも何でもない。自分のなら未だしも、彼が他人の爪を切りたいだなんて、そちらの方が余程珍しい。もしかしたら、自分からは普段やらない事であるからこそ、興味を持ったのかもしれない。そう結論づけて、名前は静かに事の成り行きを見守ることにした。

人に爪を切られるのは何時振りだろうか。既に切られた右手に視線を向けて、名前はふと思った。彼の言葉に素直に従ったのは、断る理由がなかったのと、ほんの少しの好奇心が疼いたからだ。
爪切りを持つのは危ないと、幼い頃は母親が爪を切ってくれていた。その時に感じた感覚と今の感覚は、少し違うように思う。何だか、とてもむず痒い。
コト、と役目を終えた爪切りをテーブルに置いて、今度はその手に爪やすりを持ち、角張った爪を綺麗に整えていく。指の一本一本を丁寧にそしてまるで壊れ物を扱うかのようにそれは酷く優しく触れる。ものの数分で尖った爪は姿を消し、最後の仕上げとばかりにふっ、と息を吹き掛けられて左手は解放された。
ただ爪を切ってやすりで整えただけの至ってシンプルなものではあるが、その仕上がりには目を見張るものがあった。ぽつりと、名前は思わず感嘆の声を漏らす。

「…すごい、ですね」

「んー?こんなもん誰だって出来んだろ」

「でも、自分でやるのと人にやってもらうのとでは違いますよ。少なくとも、私はこんなに綺麗に仕上げられないです」

「ししっ!ま、オレ王子だし?やろうと思えば何だって出来んの」

うーん、と唸りながら名前はまるで珍しい物を見るかのように左手を開いたり閉じたり、角度を変えたりしてそれを凝視する。それを横目に「てか名前ってどんだけ不器用なわけ?」と口角を上げて笑い飛ばして、ベルフェゴールはもう片方の手を取り、やすりを滑らせる。時折吹き掛けられる吐息が擽ったい。
ちら、とベルフェゴールは手を動かしつつ名前を盗み見る。尤も、盗み見ると言っても肝心の目は前髪で隠れてしまっているので普通に視線を向けているだけなのだが。まるで子どものように目を輝かせてその作業を見つめる名前の顔に、顔がだらしなく緩みそうになる。それを何とか押し止めようとするが、完全には無理で、どうしても口元が緩んでしまう。彼女の何気ない仕草の一つ一つが、こんなにも彼を惹きつける。
爪やすりを爪切りの隣に置いて、ベルフェゴールはそっと手を離す。仕上がったばかりの爪をしげしげと眺めて、彼女は満足そうに目を細め、笑う。

「ベル、ありがとうございました」

その言葉とその顔を、ベルフェゴールは望んでいた。どうしようもなく心が満たされていくのが分かる。らしくない、とベルフェゴールは胸中思う。在り来たりの安っぽい礼の言葉に、如何してこんなにも満たされているのだろう。他人の爪を切るという行為も、目の前の女の一挙一動に揺れる感情も、すべてが自分らしくない。けれど不思議とそれを不快だとは思わない。嗚呼、これは末期かもしれない。何と無く、ベルフェゴールはこの感情の名前を理解しつつあった。
名前の手を取って薬指のあたりにそっと唇を寄せる。途端に慌てたように声を上げて頬を染める彼女に、またじんわりと胸が温かくなってベルフェゴールは口角を上げて笑う。彼女の笑った顔が見れるのなら、何だってしてやりたいと、思う。他人に対して自分がこうも尽くそうとする日がやってくるとは、彼自身思いも寄らなかった。
もっともっと、沢山甘やかして、彼女も自分に溺れればいい。互いに依存し合えば、離れることなど無いのだから。悪戯に指を絡めて、ベルフェゴールは薄く笑う。


さあ、次は何をしてやろうか

11.05.08

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