くあ。欠伸を一つ。眠そうに目を擦りながら、ドアの鍵を閉めた。
振り返って空を見上げれば、今日も快晴。良い天気だ。ふふ、と小さく笑って、名前は歩き出した。太陽の光に反射して髪を留めているバレッタが、キラリと光った。
出会いは突然に
マンションを出てすぐ、名前はいつもとは違う光景を目の当たりにして硬直した。
人が、壁に寄りかかるようにしてぐったりとしている。周りを見回しても人の気配はない。
ちらりと腕時計を見る。──まだ大丈夫。ゆっくりしてはいられないが、見るからに具合の悪そうな人を見過ごすような薄情な人間ではない。せめて救急車を呼んでから仕事に行こう。こつり。ヒールの音を響かせて距離を縮めていった。
「あの…大丈夫ですか?」
良く見ると、それは青年だった。しかし、その容姿がかなり奇抜だ。きらきらと光る金色の髪。目を覆い隠している長い前髪は、とても暑そうで邪魔そうだ。ちょこんと頭に乗っているティアラが印象的だった。見た目からして日本人ではないだろう。
「……ん…」
小さく、青年は声を洩らした。どうやら意識はあるらしい。この暑さだ。熱中症か何かだろうか。
「あの…っ!」
肩を掴もうとした手は、触れる前に彼の手にあっさりと捕まえられた。驚いて身を引こうにも、思いの外がっしりと掴まれていて動かせない。
「……みず」
「水、ですか?」
ちょっと待ってて下さい、とカバンからミネラルウォーターを取り出す。冷蔵庫から出して間もないため、それはまだ冷たい。まだ飲んではいないし、自分のはコンビニか何かで買えば良い。今優先すべきなのは具合の悪そうな目の前の彼だ。
「良かったら、どうぞ」
「……」
自然な動作で、手に持ったミネラルウォーターは彼によって奪われた。
キャップを開けてごくりと一口。ふぅ、と息を吐き出して今度は一気に飲みだした。半分ほどなくなって、蓋を閉めたと思ったらそのままペットボトルを名前に差し出す。受け取りながら、なんて人使いに慣れているんだろう、と名前は思った。初対面の人間に対して、礼もなく悪びれる様子もない。非常識極まりないが、逆に言えば凄いことなのかもしれない。
ぐいっと服の袖で口を拭って漸く、彼は名前へと視線を向けた。尤も、目は見えないのでそういう風に見えただけなのだが。
「……お前、だれ?」
第一声がそれだった。不思議と嫌な感じはしなかった。多分だが、彼は初対面の人間も含め誰に対してもこんな感じなんだろう。名前を教える気はなかった。そこまで関わってはいけない気がした。ただのお人よしの通行人。それだけで十分だ。だから名前は敢えて質問には答えなかった。ごく自然に話題を変える為、愛想のよい笑みを浮かべる。
「具合はどうですか?救急車呼びます?」
「これくらいでへばる程、王子弱くねーし」
「…はあ」
会話が噛み合っていないような気がするのは気のせいだろうか。取り合えず、もう大丈夫そうだ。そろそろ行かなくては。立ち上がろうとして、受け取って手に持ったままのペットボトルに視線を移した。これは、彼が口を付けて飲んだものだから持っていても仕方がない。
「これ、あげます」
「……」
「暑いのでちゃんと小まめに水分を取らないと駄目ですよ」
「……変な女」
まじまじと、青年は名前を見上げる。観察しているかのように、視線は上から下へ忙しなく動いている。探るように見られるのはあまり心地の良いものではない。名前はそんなに見つめられても、と苦笑を浮かべた。
「なあ、」青年はゆっくりと立ち上がる。同い年か年下であろう彼は思っていた以上に背が高かった。見下ろしていたのに、今は見上げなければ彼の顔が見られない。しししっと不思議な笑い声を洩らして、彼は言い放った。
「礼は言わないよ。だってオレ王子だもん」
思わぬ一言に名前は目を丸くする。そんな行動さえも読んでいたかのように、青年は笑う。青年は名前がどう出るのか様子を窺っているようだった。困ったように笑いながら、名前はカバンを肩に掛け直した。そして、言う。
「私は見返りなど求めてはいませんよ」
その言葉に、今度は青年が驚く番だった。ぽかん、と口を開けたまま彼は名前を見る。真っ直ぐ見つめ返してくるその瞳に、嘘偽りはなかった。
怒ると思っていた。誰だって初対面の人間にそんな事を言われれば少なからず不快感を味わう筈だ。しかし目の前の女は嫌な顔一つせず予想外のことを口走った。だから、青年はどうしていいか分からず困惑する。こんな反応を返されたのは生まれて初めてだった。
「…オレ、お前が何考えてんのか分かんねー」
青年が動揺しているのが空気を通して伝わってくる。そして、警戒心が強まったのが分かった。見る見る険しくなっていく青年の顔。肌を刺激するのは、殺気に似た疑念。名前はまるで小さな子供を諭す母親のように優しく言う。
「見返りを求めた時点で、親切は親切でなくなるんですよ」
「なに、それ」
「親切は、自分が相手にしてあげたいと思う気持ちの表れです。多少語弊がありますが、それは悪く捉えれば押し付けでもあるし、自己満足でもあります」
「………」
「私は、貴方にしてあげたいと思ったから声を掛けて、水をあげました。全ては私の“自己満足”から来た行動です。だから私は貴方にお礼を言う事を強要しないし、その必要はないんですよ」
したかったからした、それだけですよ。と名前は続ける。彼は益々わけが分からないと首を傾げる。
では何故、人は何かをしてもらったことに対して礼を言ったり、何かを与えたりするのだろう。必要ないのではないのか。
彼の思っていることを汲み取って、名前は優しげに目を細める。
「お礼を言うという行為も、自己満足の一種です。されて嬉しかったから、それを相手に分からせるために言葉にして伝えるんです。“ありがとう”と。お礼を言われて悪い気分になる人はいないでしょう?」
青年が何かを言う前に、「あっ!」と名前は声を上げる。慌てて腕時計を確認してギョッとする。思ったよりも時間が進んでいる。ぎりぎり間に合うか間に合わないかの瀬戸際だ。
「じゃあ、私はこれで失礼しますね!」
走り出そうとした瞬間、服の袖に重みを感じて思わず力を抜いた。見れば、彼がちょんと袖を掴んでいる。俯いたまま、彼は小さな声で問いかけた。
「お前はさ、」
「…?」
「嬉しいわけ?」
何がとは言わなかった。しかし、言わずとも分かった。「はい」と肯定して振り向こうとすると、肩をがっちりと掴まれて動きを封じられる。声を上げるより早く、耳元に熱い吐息がかかった。驚いて肩を揺らすも、思うように動けない。
大人しく事の成り行きを見守るしかなかった。たった数秒の沈黙が、とても長く感じた。
「Grazie」
とても良い発音が耳を通り抜けていった。素直ではない彼の行動に名前は小さく笑みを洩らす。礼は言わないと言い張っていた彼が、日本語でないにせよ感謝の言葉を述べた。これが青年が自分の言葉を聞いた上で考え、導き出した答えなのだろう。少しでも、彼に変化を与えられた。それがとても嬉しかった。もう、肩を押さえていた手は離されていた。振り向くと、思っていたよりも近くに彼は居た。その距離の近さに驚くも、名前は柔らかく笑い、言葉を紡いだ。
「どう致しまして」
ししっと満足げに青年は笑った。顔色も良いし、もう具合は大丈夫のようだ。
「オレ、ベルフェゴール。お前は?」
う、と名前は言葉に詰まる。名乗る気はなかった。が、相手の名前を知ってしまった以上、名乗らないのは失礼にあたる。
「名字、名前です」
「名前」呟くそうにそう言って、とん、と名前の肩を押す。
「もう行っていーよ」
「……!ち、遅刻…っ」
思い出したように全速力で駆けていく名前を見送って、ベルフェゴールはうしし!と笑う。
「いいモン見つけちゃった」
一人にんまりと笑いを洩らし、ベルフェゴールは歩き出した。歩く度に手に持っているペットボトルの中身がたぷんと音を立てて揺れた。