「……怒ってんの?」

ベッドの上で膝を立てて、枕を抱えたまま名前は何も言わない。ベルフェゴールはベッドに片膝をついてじっと名前の返答を待っている。その顔に笑みはなく、ばつが悪そうに視線を逸らしている。こほこほ、と控えめな咳が静かな室内に響き渡る。完治目前の風邪が悪化したように感じた。
枕に顔を埋めてはあ、と名前はベルフェゴールに気づかれないよう小さな溜息を吐く。──帰る場所がなくなってしまった。正確には“帰る職場”が。
はあ、と今度は聞こえる程大きく溜息を吐いた。遣る瀬無い思いは募るばかりだった。


Opacita


「そろそろ日本に帰ろうと思います」

切り出したのは名前だった。休暇も残すところあと数日。いつまでもイタリアには居られない。名前には帰る国が、するべき仕事があるのだ。
きょとん、とした表情を浮かべて「帰る?」とベルフェゴールは鸚鵡返しに呟く。それに首を傾げたのは名前だ。期限付きの滞在であると、彼は知っている筈だ。彼の反応の意図を読み取ることは出来なかった。

「はい。明後日には日本に帰らないと…」

「なんで?」

「仕事がありますから」

「あー、それなんだけどさ、」

そこで、彼は初めて名前に告げたのだ。名前がイタリアに来たその日に彼女の仕事先に手を回して退社させていたことを。そんなことが出来るわけない。その言葉は喉の一歩手前で消えてしまった。今更ではあるが、彼はマフィアなのだ。下手をすれば人一人の存在を揉み消すことだって可能である筈だ。工作員を手配して退社の手続きをさせることなど造作もないだろう。
こうして、冒頭に至るのである。
はぁ、と名前は再び溜息を吐く。ベルフェゴールの考えていることが、解からない。

「どうして……」

「あ?」

「どうして、こんな事したんですか」

「なに、お前ジャッポーネに帰りたかったわけ?」

「当たり前です!私の帰る場所はあそこで、やるべき事だってあったんです」

「ふーん」

知ったことじゃない、とでも言う風にベルフェゴールはふい、と視線を逸らす。このような彼の振る舞いには慣れている筈だった。しかし、今はどうしてもそれを受け流せなかった。突然のことに頭がいっぱいで自分自身に余裕がないのも原因ではあるが、それ以上に、彼が何を思い、どうしてこのような行動に出たのか、幾ら考えても解らない。
それが今の名前の思考の大半を占めていた。其れは疑問というよりは戸惑いに近い。
ぎゅ、と名前は枕に爪を立てて握りしめる。それをどう受け取ったのか、彼は長い前髪に隠れた瞳をそっと細めた。「……やっぱ怒ってんじゃん」そう言う口元は不満げに歪められていた。

「…怒っていないと、思いますか?」

耳を澄ませないと聞き取れない程、低い声で名前は呟いた。彼女のこんな声色を聞いたのは初めてだった。ベルフェゴールは口を噤む。目線を下げたまま、名前は更に言う。瞳はぼんやりと何処かを見ているようで、何も映してはいなかった。

「私は、貴方の考えていることが解りません」

「………」

「…大袈裟だと笑うかもしれませんが、ベル。貴方は私の人生を滅茶苦茶にした」

「………」

「私の生きていく術を奪った。これからどうしろと言うんですか。──飼い殺しにでもするつもりですか?」

「…ししっ。それもいーかもね」

「ベル……ッ!」

嗤笑を浮かべてそう言い放った彼に、名前は思わず声を荒げた。ベッドサイドの椅子が轟音を立てて吹っ飛んだのはその直後である。ガンッと壁にぶつかった椅子を視界に捉えて名前は肩を震わせた。椅子を蹴り飛ばした張本人は、酷く苛ついているようだった。瞋怒しているのは名前とて同じだった。抱えている枕をズタズタにしてやりたい。物に八つ当たりしようとするのを必死に抑えて、名前は歯を食いしばった。彼と同じことをするなんて真っ平だ。

「一体…っ、私をどうしたいんですか──!」

目線を上げた瞬間、握りしめていた枕が先程の椅子と同じように吹っ飛んだ。それほど大きな音はしなかったものの、名前を驚かせるには十分だった。すぐ目の前に、彼が居る。物音一つしなかった。気配すら、無い。恐らく痛めてしまったであろう爪と指先の鈍い痛みなぞ気にしてはいられなかった。
ベルフェゴールは無表情だった。何の感情も含んではいないであろう瞳が、向けられている。視線が痛い。本能的に名前は距離を置こうとする。しかし、これ以上下がることは出来ない。
ベルフェゴールの手が、冷え切った名前の手を捕らえた。遠慮のない力で掴み上げられ、強引に引き寄せられる。

「──手放す気なんてねえよ」

「……っ」

「今更逃がしてやるつもりも、な」

「ベル、」

「オレの傍から離れんなっつってんの」

ぐい、と思い切り引っ張られて、強い力で抱きしめられる。ベルフェゴールは、名字名前という存在を手放したくなかった。ただそれだけだった。彼は単純に、彼女の居場所が、自分であればと。仕事なぞ必要ない。彼女には、自分という存在さえあればいい。
自分のもとに留めておく術を知らない彼は、結果、このような形で名前を留めることになってしまった。其れが名前の意に反することになろうとも、ベルフェゴールは、手放したくはなかったのだ。
ベルフェゴールの腕の中で、名前は溜息を一つ吐く。口元に笑みを浮かべて。

「不器用な人ですね。…手先はあんなに器用なのに」

「……うっせ」

「ベル」

「なに」

「イタリア語、教えて頂けますか」

抱く腕に力が籠る。其れが答えだった。


(なあ、怒ってる?)
(もう怒っていませんよ)
(……あっそ)
(口元、緩んでますよ)

10.08.28

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