朝起きてまず思ったことは“寒い”だった。上半身を起こして名前は腕を擦りながらぶるりと身震いする。何なのだろう、この寒気は。心なしか、体が重い気がする。しかし疲れが溜まっているのだろうとさして気にも留めず、名前は欠伸を一つ漏らしてベッドから抜け出した。こんなにスッキリとしない朝を迎えたのは久しぶりだった。


ぐらぐらと、視界が揺れる。到頭立っていられなくなり、名前は階段の手摺りに体を預けて頭を押さえる。体が異様な熱を孕んでいるのが分かる。はぁ、と重い吐息を吐き出して、今更ながら自分は体調が悪いのだと知る。手摺りを握る手が汗ばんで気持ちが悪い。鈍器で殴られたかのように頭が酷く痛み、名前は一歩も動けなくなってしまった。意識を繋いでいるのがやっとだった。

「…名前?」

「……っ」

呼ばれた名前に振り向く余裕などない。相手も名前の様子が可笑しいことに気がついたようだ。階段を上がってくる音がする。ああ、迷惑をかけてしまう。朦朧とする視界が動く金色を捉える。名前の記憶はそこまでだった。限界を迎えた名前の体はぐらりと傾いて崩れ落ちる。その寸前で伸びてきた腕がそれを支えた。苦しそうに呼吸をする名前の額に、大きな手が触れる。予想以上の熱を持ったそれに、彼は小さく舌打ちを漏らす。

「……オレにどうしろってわけ?」

顔を赤くして荒い呼吸を繰り返す名前を見下ろして、困り果てたようにベルフェゴールは呟いた。病人の看病など生まれて此の方したことがない彼にとって、それは当然の反応である。取り敢えず寝かせる。今の彼にはそれしか思いつかなかった。


raffreddore


「安静にしていれば明日には熱は下がるわ」

額に濡れタオルを乗せてルッスーリアはそう言った。ぐったりとした名前を抱えてベルフェゴールが真っ先に駆け込んだのは彼の部屋だった。突然の訪問に驚いたルッスーリアだったが、腕の中で苦しそうに呼吸をする名前を見た瞬間、彼の対応は早かった。逸早く名前の部屋へと移動し、汗でぐっしょりと濡れた服を着替えさせようとルッスーリアが名前の服のボタンへと手を伸ばす。その際にベルフェゴールが些かの抵抗を見せたのは言うまでもない。しかし、その時のルッスーリアの剣幕に押されて彼は喉元まで競り上がった言葉を呑み込むしかなかった。

「疲れが溜まっていたのかしらねえ」

「……」

先程よりは落ち着いた呼吸を繰り返す名前を見下ろして、ルッスーリアは呟く。ベルフェゴールはベッドサイドの椅子の背に顎を乗せて座ったまま何も言わない。

「あんまり無理させちゃダメよ、ベルちゃん」

「………オレが原因って言いたいわけ?」

からかいを含んだそれにぴくりと彼は反応を示す。今の彼に冗談が通じないのは目に見えていた。鋭い視線がルッスーリアの背に突き刺さる。「やあね、冗談よー」と軽口を叩いても、殺気は消えない。
「う、」と名前が小さく呻いた。バッとベルフェゴールが名前へ視線を向けるが、起きる様子はない。一瞬で消えた殺気にルッスーリアは口元に笑みを浮かべる。思い出すのは部屋に駆け込んできた時の、ベルフェゴールの顔。どうしていいのか分からず、動揺を隠し切れていない。彼のあんな表情を見たのは初めてだった。あの時の彼は何よりも腕の中の存在が消えてしまう事を恐れていた。ヴァリアーの幹部ともあろう人間が、高が風邪で倒れた女一人に、だ。今だって、彼からはいつもの余裕の表情が消えている。にんまりと弧を描いている筈の口元は、きゅっと真一文字に結ばれていて。

「んもう、しっかりしなさいよ!名前ちゃんが起きた時にそんな顔してちゃ笑われるわよ」

「…分かってる」

「ちゃんと薬を飲めば治るわ。私はもう行くけど、起きたらご飯を食べさせて薬を飲ませるのよ」

こくりとベルフェゴールが頷いたのを見届けて、ルッスーリアは静かに部屋を出て行った。閉めたドアに寄り掛かり、彼は思う。マフィアと一般人とだなんて、釣り合う訳がない。住む世界も価値観も、何もかも違うのだから。でも──例外があってもいいのではないか。あの二人ならば、とお節介とも思える想いを抱いて、自室へと足を進めた。




「……ぅ」

ぼんやりと霞む視界に映ったのは、見慣れた天井。如何してここで寝ているのだろう、と思ったところで気を失う前のことが静かに頭を巡った。

「ベル……?」

起き上がろうとしたところで、ぐいと手を掴まれる。ちらりと視線を向ければ、すぐ横に彼が居た。何も音がしなかったので、全く気がつかなかった。握られた彼の手が冷たくて気持ちがいい。そっとその手を頬へと持っていき当てると、ぴくりと彼の指先が反応を示した。

「迷惑を…掛けちゃいましたね」

「………」

「ベル…?」

何も言わない彼を、名前は不思議そうに見上げる。薄暗い部屋の中で彼が今どんな顔をしているのか確認するのは難しい。ぽとりと、名前の額に乗せられていた濡れタオルが落ちた。──彼女が起き上ったからだ。それに気づいたベルフェゴールが口を開くより早く、弱弱しい力が彼の手を引っ張った。振り解こうと抗すれば簡単に振り解ける。しかし彼はしなかった。否、出来なかった。導かれるままにベルフェゴールは椅子から立ち上がりベッドに腰掛ける。起き上がった名前にぎゅ、と抱きしめられたのはその直後だった。

「泣かないで、下さい…」

「…泣いてねーし」

「でも、泣いてるみたいです」

「ワケ分かんねー」

大人しく抱きしめられたまま、ベルフェゴールは静かにその小さな背に手を回す。とくん、とくんと規則正しいその心音に酷く安堵する。「…具合は」独り言のような呟きはしっかりと彼女の耳に届いていた。

「大分楽になりました」

「ん」

「ちょっと…疲れが出てしまったみたいです。きちんと体調管理はしていたつもりなんですけど……」

こてん、と名前の頭が彼の肩に寄り掛かる。頬に触れてみれば、先程よりも熱を持っているような気がする。気持ちがいいと目を瞑る彼女をそっと寝かせると、タオルをひんやりと冷たい水に浸して絞り、額に乗せた。

「何か食う?」

「…もうちょっと、したら」

「ん」

「…ベル」

「なに?」

「      」

答えるより早く、名前はそれだけ言って眠ってしまった。熱に浮かされて、彼女は自分が何を言ったのか覚えているかも分からない。けれど、はっきりと言った。
どこにも…行かないで」と──。
答えを言う代わりに、ベルフェゴールは名前の頬にそっと口付けを落とした。

10.07.29

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