「い…っ」

ぴり、と痛みが走ったのは欠伸をかみ殺した直後だった。慌てて唇に触れると同時に僅かな痛みを感じる。指の腹には少量の血が付着していた。乾燥するこの季節、リップクリームは手放せない。名前は唇を軽く押さえながら薄桃色のスティックを取り出した。キャップを取るとふんわり香る苺の匂い。思わず齧ってしまいそうになる程本物に酷似したこの香りは名前のお気に入りだった。
にゅ、と横から伸びてきた手がスティックを奪い取る。ベルフェゴールはそれを手で弄びながら興味深げに見つめた。

「なあ、これって苺の味すんの?」

「しませんよ。香りだけです」

「ふーん」

「あの、リップ返して下さい」

くい、と空いた手が名前の顎を掴み上げる。まるで名前の言葉など聞こえていないかのように彼はそのままスティックを持つ手と共に顔を近づける。その距離の近さに名前は息を呑む。さらりと揺れる金色の髪がカーテンから漏れる光に反射してきらきらと光った。

「べ、ベル…!」

「ん」

「自分でやれますから!」

「動くなって」

低く、心地よい声が耳を擽る。大人しく口を閉じた名前を見てベルフェゴールは満足げに口元を緩める。苺の香りが近づいてきた。かさついた唇を滑るその感覚に言い知れない恥ずかしさが込み上げてくる。他人にリップクリームを塗られるのがこんなに恥ずかしいものだったとは。ベルフェゴールは口元に笑みを浮かべながら、手に持つスティックをゆっくり、ゆっくりと動かす。必要以上に時間を掛けて丹念に。早く終われと、声は出せないのでそう強く思うことしか出来ない。頬を桃色に染めて、名前はその手が離れるのをじっと待った。
ほ、と息が吐けたのはそれから間もなくだった。潤いを取り戻した唇は自分でやるよりも綺麗に仕上がっており、手鏡片手に改めて彼の手先の器用さに感嘆の声を漏らした。

「やっぱり器用ですね」

「当ったり前じゃん。オレ王子だぜ?」

「…ベル」

「んー?」

「近い、です」

「何が?」

「私とベルの距離が──」

「何で逃げんの?」

口元に弧を描き、ベルフェゴールはじわじわと名前との距離を詰めていく。ソファーの面積は限られている。あっという間に肘掛けに追い込まれた名前は逃げ場をなくす。声を上げる前に彼は名前の頭部に手を回し、言葉ごと唇を塞いだ。「ん……っ」と言葉にならなかった声が漏れる。何度やってもこの行為にはなれない。いつだって名前は余裕がなかった。今も、例外なく。頭がぼんやりとする。舌が絡みつく度、体の奥から何かが這い上がってくるような感覚に襲われる。
上手く呼吸が出来ず、名前は苦しそうに声を漏らして無意識のうちに彼の服を握り締める。それを愛しげに見つめる視線に、彼女は気づかない。

「は…ぁ…っ」

「……まっず」

「あ、味があるわけ、ないじゃないですか!」

香りだけで、実際に苺の味がするわけではない、と息を整えながら再度名前は言った。ぺろりと、ベルが口に移ってしまったリップを舐め取る。その仕草が色っぽくて堪らず、名前は目のやり場に困ってしまう。思わず目を伏せた名前の顎を、再び彼は掴み上げる。唇に視線を落として、「あ」と彼は声を上げた。

「血、出てんじゃん」

「え…?」

指先が唇に触れる前に、ベルフェゴールは顔を近づけて己の舌でべろりと舐め取った。まるで飼い猫が主人にするようなそれに一気に熱が集中する。ざらついた舌が這った感覚が消えない。林檎のように真っ赤になった名前を見て、彼は「ししし!」と意地悪く笑う。耳元で囁かれた「ごちそうさま」という言葉に、ぞくりと快楽に似た何かが駆け抜ける。

「ししっ そんなに良かったわけ?」

「ち、違います!」

「なあ、もう一回、やらね?」

「何をですか?」

「リッププレイ」

「じょ、冗談は──」

「名前」

艶かしく笑う彼は、冗談を言っているようには見えない。後退ろうとすれば、そんなことはお見通しだとでも言うようにあっさりと腕を掴まれ動きを封じられる。
スティックを手ににんまりと笑う彼から逃げることなど不可能だった。

labbro

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