──ひた ひた
──ヒタ ヒタ ヒタ

薄暗い廃墟に木霊する音。一定の音は徐々に大きくなり確実にこちらへと近づいてくる。ひたり、ぺたり。時には何かを引き摺るような擦れた音も。耳鳴りが酷い。
パキ。持っていた懐中電灯にヒビが入った。その瞬間背筋を這うような悪寒を感じる。指先が異常な程に冷え切っており感覚がない。自然と荒くなる息遣い。コツリと響く自分の靴音さえ他のモノのように聴こえる。耳鳴りが治まらない。チカチカチカ。懐中電灯が点滅し始める。いやだ、消えないでくれ。
ビクリと肩が震える。動揺で懐中電灯が手から滑り落ちそうになったが何とか食い止めた。今自分の足音よりも大きな音を出して平常心を保てる自信がない。動揺の原因は階段の踊り場にあった大きな鏡だった。ヒビ割れたそれは月光に照らされた自分を映していた。思わず失笑が洩れる。なんて顔だ。紫色の唇に血の気のないその顔は風邪を引いて体調が悪くなった時よりもやつれて見えた。目は何かに怯えているように落ち着きがなく、本当に自分だろうかと疑いの念すら抱いた。そこでふと違和感を感じる。そう、何か、大切なことを忘れているような──
そこで気づく。──足音が、聞こえない。小刻みに震える体を止めることなど出来なかった。確信があった。すぐ、近くにいる──
どくり、心臓が激しく脈打つ。自分の左肩が、変だ。何故こんなに重いのだろう。左腕に違和感を感じた。何かが這ったような……。鏡に視線を向けて恐怖に殺されそうになった。違和感を感じた左肩。そこに居るはずのないモノ。ニタリとこちらを見て笑う、青白い顔の女。女の長い髪が左腕に絡み付いていた。声など出るわけがない。ヒューヒューと乾いた呼吸音が脳内に響く。ニタリと笑う女の口から垣間見えた舌は異常な程に赤かった。ガッとひび割れて所々爪の剥がれた土色の手が頬を抉るように触れる。恐怖でどうすることも出来ない私の耳元で、掠れた女の声がする。

ねえ、…目をちょうだい

言葉では言い表せない音を最後に、目の前は真っ暗になった。最後に見たのは笑う女の口元と、土色の手…


漏れる嗚咽に背筋が凍る


「……っ」

息を呑んで名前はソファーに身を縮める。右手は隣に座るベルフェゴールの服を掴んで放そうとはしない。今にも泣き出しそうな名前を見てベルフェゴールはしししっと笑い声を漏らす。

「名前こんなの怖いわけ?」

「子供騙しですよねー」

名前の左隣でフランはくあ、と欠伸をする。無表情でホラー映画を直視する姿はある意味怖い。ベルフェゴールも怖がっている様子はなく、それどころか愉しげに画面に視線を向けている。彼的にはもっとスプラッタなシーンがお好みらしく、「もっと胴体バラバラになるシーンとかねーの?」と一人不満を漏らす。名前はそんな奇怪な二人に挟まれて一人恐怖に震えていた。怖いのは苦手なのに見たいという可笑しな好奇心が芽生えてこっそりと指の隙間から見てしまう、なんて経験は誰にでもあるはずだ。その場合の殆どがその後見てしまったことを後悔する。彼女もその一人だ。頭からあの女の人の笑みが消えない。歪んだ口元から覗く黄ばんだ歯と真っ赤な舌。ぞくりと背筋が凍りつく。
もう大丈夫だろうか。テレビに視線を映して、名前は後悔した。タイミングが悪かったらしく、ドアップで見たくない光景が映っていた。

「ひ、ぁ…!」

「ししし!すげー」

ぎゅう、と先程よりも強くベルフェゴールの服の裾を掴む。それを見て流石に不憫に思ったのか、彼はテレビ画面に視線を移したまま震える名前の頭を撫でてやる。不器用な撫で方ではあったがそれに酷く安堵を覚える。効果は十分だったようだ。ホッと息を吐いた名前が肩の力を抜くと、そのタイミングを狙って頬にひんやりとした手が触れた。「やあ…!」と悲鳴を上げると、仕掛けた当人は「ほー」と感嘆に似た声を発した。

「面白いですねこれー」

「ふ、フランくん!やめ…っ」

「温かいですねー名前さん。流石人間カイロ」

「わ……っ」

「カエルてめー何処触ってんだよ!」

「ゲロッ」

見事吹っ飛ばされたフランは危うくソファーから落ちそうになるが、寸前の所で何とか免れた。それに舌打ちしたベルフェゴールを見て、名前は何が可笑しいのか一人くすくす笑う。

「仲良しですね、二人とも」

「はあ?何処をどう見て言ってんの?」

「センパイと仲良しだなんて冗談やめて下さいよー」

「こっちのセリフだっての!」

ぎゃーぎゃーと騒がしくなった雰囲気の中でホラー映画を観ても怖くも何ともない。ふふ、と笑い声を漏らした時だった。プツ──テレビが突然消えた。二人のどちらかが消したのだろうか。疑問も解決しないまま、突然両肩に重みを感じた。後ろから誰かに抱きつかれている。「ベル?」と不思議に思った名前が尋ねるが返事はない。彼でないとすれば、

「フランく──」

名前を呼びながら振り向いた名前は言葉を失う。長い前髪から覗く充血した瞳と目が合った。歪んだ口元から覗く真っ赤な舌。いつの間にか手が首筋を這っていた。這うように触れる度、ぞくりと全身が粟立つ。このまま首を絞められるのではないかと、そんな恐怖が脳を支配する。手はそのまま上へ上へと這っていき頬に到達する。薄っすら視界に入ったその手は血の通っていないような土色で爪が所々剥がれひび割れていた。「ねえ、」耳元で声がする。

「目を──ちょうだい?」

ぷつり。そんな音が脳内に響いた直後、名前の視界は真っ暗になった。糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた名前を受け止めたのはベルフェゴールだった。完全に意識を失っている名前を見て彼は珍しく慌てた様子を見せる。

「おまえさ、やり過ぎじゃね?」

「責任転換はよくないですー。乗ったのはセンパイなんですから同罪ですー」

「実行犯はおまえだろカエル。どーすんの?オレ知らねーからな」

「逃げるなんてズルイですよ堕王子ー」

「誰が堕王子だっ」

気まぐれに投げたナイフがフランの胸に突き刺さる。それに「痛いですーやっぱセンパイって嫌な奴だー」と薄っすら涙を浮かべるフランだが血は一滴も流れてはいない。
見た感じ痛いで済まされるような程度のものではないのに、フランはそのままナイフを引き抜いてそこら辺に放ってしまう。こいつのこんな所が嫌いだとベルフェゴールは舌打ちを漏らす。

「…付き合ってらんね。オレもう寝るから」

名前を抱えてベルフェゴールはソファーから立ち上がりドアへと歩き出す。それを詰まらなさそうにフランは見送る。本当にあのベルフェゴールかと彼は思ってしまう。人間は短期間でこうも変わってしまうものなのか。

「ベルセンパーイ。今度名前さん貸して下さいー」

言った瞬間に飛ばされたナイフは想定内だ。あの体制でよく投げられたものだと感心してしまう。フランにとって名字名前という人間は興味が尽きない存在だ。それは決して恋愛感情とかそういう類のものではない。ただの興味。一時の余興のようなもの。
けれどただの脆弱な一般人である彼女はマフィアである自分たちが持っていない何かを持っている。それに酷く惹かれているのは確かだ。その“何か”が分かるまで、名字名前に対する興味は冷めることはないのだろう。

「精々愉しませて下さいねー名前さん」

誰も居なくなった部屋にその声は静かに響き渡る。フランは無造作にカエルの被り物を引っ掴んで投げ捨てる。ごろりと転がったそれを見下ろして彼はソファーに身を沈めた。

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