カタカタと、パソコンのキーボードを叩く音が静かにリビングに響き渡る。普段とは違う仕事の雰囲気で、名前は黙々と仕事に励んでいた。忙しなくキーの音を立てて中々の速さで文字が流れるように画面に打ち込まれていく。手元にある書類にも目を向けつつ、要領良く名前は作業を進める。その手際の良さと正確さは社内でも一目置かれている程だ。

バサッと乾いた音がして書類の束の一つが滑るようにテーブルから落下した。それに気付いた名前は一旦作業を止め、慌てて散らばった書類を拾い集めた。ガチャ、と玄関のドアが開く音がしたのはその時である。一人暮らしである名前にとってそれは有り得ない事だが、怖いと思うわけもなく、無論誰が来たのかも分かっている。ただ、あの彼が玄関からちゃんと入ってきたことに名前は驚いているのだ。彼が来たからには仕事の再開は難しいだろう。集中力も切れたことだし、また明日やろう。苦笑を漏らして名前は玄関へと足を向けた。異変に気がついたのは、その直後だ。ピタリと歩みを止める。「ベ、ル…?」声が、震える。そろりと壁に手を這わせて電気のスイッチを探す。触れたそれを押すと玄関が一瞬で明るくなった。
いつもとは違うベルフェゴールが、そこには居た。

「うししし!なーに、名前?」

いつもと同じ“ように”笑う彼に、言葉が出なかった。


optare


ツン、と鼻を突く濃い鉄の香り。ぞくりと悪寒が走る。淡い電光に照らされた彼の体は不自然に赤い色が付着していた。服に、頬に、髪に、それでも彼はいつもと同じように哂う。まるで赤など存在していないかのように。頬にこびり付いた血を拭おうともしないで、ベルフェゴールは一歩、前に出る。後退ることも声を出すこともなく、名前はただ突っ立っている。やがて目の前まで辿り着いた彼は名前を見下ろしたまま何も言わない。歯を見せてにんまりと笑う彼からは何も読み取れない。名前が震えているのが分かったのか、ベルフェゴールは笑みを崩すことなく「怖い?」とだけ問う。答える代わりに、名前はゆっくりと首を横に振る。

「しし!こんなに震えてんのに?」

「違います、ベル…わたしが怖いのは、」

名前はそっと手をベルフェゴールへと伸ばす。怪我をしているか確かめるために。しかし、頬へ触れる前に彼の右手が名前の右手を捕らえる。そこで名前はあれ?と首を傾げる。何故、左手で掴まなかったのだろう。右手を右手で掴むのは不自然だ。見上げても、彼は笑っているだけ。それは誤魔化しているようにも見えた。

「分かってんだろ?」

「………、」

「オレが怪我なんかしてないって」

「……」

「掠り傷一つねーよ。つーか、そんなヘマ王子しねーし。コレ、全部返り血、」

「ベル!」

彼が止めるのもお構いなしに、名前はぎゅ、と抱きつく。肩に手を添えて引き剥がそうとしても、名前は離れない。「血、まだ乾ききってねーんだけど」と困惑したような声が上から降ってくる。そこで、先程の彼の不自然な行動の意味を理解した。彼の左手には、少量の血が付着していた。だから、彼は左手ではなく右手で名前に触れたのだ。彼らしくない行動に戸惑いつつも何処か安堵したように息を吐いて名前は肩の力を抜いた。

「構いませんよ、そんなこと」

「……怖くねーの?オレが」

「吃驚はしましたよ。血塗れですし。私が怖かったのは、ベルが大怪我をしたのかと思ったからです」

「…くっだらね。言ったじゃん。そんなヘマしねーって」

はい、と頷いて、名前は漸く笑みを漏らした。それを見て、彼は呆れたように息を吐く。彼女は少し人とズレているところがあると彼は思う。血塗れの人間が家に入ってくるなんて普通は有り得ない。それが日常茶飯事のことなら何とも思わないだろうが名前は違う。血なんて転んだりだとか指を切ったとか、そんな程度のものしか見たことがない筈だ。それなのに彼女が気にしたのはそんなことではなく自分が怪我をしたか否か。返り血の量からして、人を殺したということは分かっている筈なのに。それでも彼女は自分のことを怖くないと言う。もしかしたら割り切っているのだろうか。こういう部類の人間もいるのだと、奇麗事だけの世界ではないのだと。
そんな彼の心情を察することなく、名前は「あ。ベル!」と何かを思いついたように声を上げた。何事かと名前を見ると彼女はこちらをじっと見つめ、言った。

「お風呂貸しましょうか?」

「………は?」

「だってそのままだと気持ち悪いでしょう?」と続けた彼女に、彼は言葉を失う。あんぐりと口を開けて固まる彼の顔は、間抜け面そのもの。ついさっきまで考えていたことが馬鹿みたいだ。彼女を買い被り過ぎたようだ。彼女はただの──、

「……天然」

「へ?…何か言いました?」

「…んーん。何にも」

本当ですか?と不審そうにこちらを見る名前を綺麗に無視して、彼は風呂どこ?と歩きながら言った。「こっちです。あ、今タオル持ってきますね!」とパタパタと走っていく名前を目で追いながら、しし!と彼は笑った。彼女は自分を怖がらない。それだけ分かれば、もう十分だった。


(オレ、イタリアのマフィアの暗殺部隊の幹部の一人なんだよねー)
(わあ!そうなんですか!)
(……)
(言われてみれば、刃物の扱いお上手ですもんね!)
(……なあ)
(はい?)
(お前って、マジで天然?)
(…えっ!)

翌日の二人の会話の一部……だったり?

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