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「感謝します」

 エスラールは華麗に回れ右をするとエメザレのもとに駆け寄った。エスラールがエメザレの前に立っても、エメザレはまだうつむいていた。小さく震えていたので一瞬泣いているのかと思ったが、そうではなかった。エメザレは怒って怯えていた。

 なんだか野良猫に似ていると思った。昔、大護院に迷い込んできた猫がいて、エスラールはどうしてもその猫に触りたかった。茶色い毛の痩せこけた、可愛いくもない猫だったが、毛だけはふわふわしていた。見ているだけでうっとりするあの毛並みに、一度でいいから触ってみたかった。くすねてきたパンの欠片を置いておびき寄せ、パンを食べるのに夢中になっている猫の背中をそっと触った。猫は触られた瞬間、牙をむき出して怒り、怯えて後ずさりすると一目散に逃げてしまった。

 きっとあの猫はひとに触られたことがなかったのだ。そして優しく撫でられる気持ちよさも知らないまま、愛でられる幸せを知ることもないまま、おそらくもう死んでしまっただろう。その猫に似ている気がした。

 出し抜けに、死んでしまった猫を慈しむようにして、エスラールはエメザレの繊細な髪を撫でた。理屈は不明なのだが、そうしなければエメザレは顔を上げないような気がしたのだ。案の定、エメザレは顔を上げた。殴られたとき、唇を噛んだのだろう。右端にうっすらと血が滲んでいる。エメザレは驚いたように目を見開いていた。

「エメザレ、上着を脱いで。俺のと交換するんだ」

 エスラールは上着を脱ぐと突き出した。だが、エメザレはなかなか受け取らない。小意地になっているというより、どうすればいいのかわからないといった感じで、目を見開いたまま突っ立ている。

「早くしろ」

 デイシャールが急き立てた。

「……あ、あの、僕の小さいよ」
「だから、ボタンが取れてるくらいでちょうどいいよ。早く脱いで。ね」

 エスラールが微笑むと、エメザレはやっと上着を脱いだ。

「ありがとう」

 エスラールの上着を受け取るとき、風で吹き流されてしまうほどの、擦れた小さな声でエメザレは確かにそう言った。



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