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真夜中も真夜中の時間帯だけに一号寮は静かだった。廊下に灯は一切なかったが、外廊下から入ってくる月の明かりで案外暗くはない。
 エスラールは急いで一階に降り立ち、サロンに向かった。しかしエメザレの姿はどこにもない。サロンには誰もいなかった。

 おそらくいないだろうとは思いつつも、トイレも覗いてみた。トイレは約五十基あるが個室ではない。数メートルある長いベンチの座面部分に等間隔で十個程度の穴が空いていて、そのベンチが五台並んでいるだけなので、一瞥しただけで、ひとがいるのかいないのかはすぐにわかる。

 嫌な予感が濃くなっていく。一号寮でエメザレが行く可能性のある場所はトイレとサロンくらいだ。エスラールの知る限り、一号隊の中にエメザレと交友のある奴はいない。誰かの部屋に遊びに行っているわけではないだろう。

 とすれば、可能性として出てくるのは二号寮くらいしかない。二号寮になにか用があるのだろうか。もしかしてエメザレは二号隊に戻りたいと思っているのだろか。しかし二号寮に帰ってどうするつもりなのか。勝手に戻ったところで、二号隊にはもうエメザレの籍はないはずだ。そんな子供じみたことをしても、ガルデンが要望を叶えてくれるわけがない。そんなことはエメザレもわかっているだろうが。

 いや、理屈はともかくとして、とりあえずエメザレを探しに行かなくてはならない。

 エスラールは訓練場を突っ切って二号寮へと向かった。訓練場には白っぽい砂が敷かれているのだが、それが月光を反射して黒い二号寮を下から不気味に照らしていた。

 エスラールにとって二号寮は未知なる領域だ。いつぞや述べたように一号隊と二号隊にほぼ接点はない。二号寮に用があるわけもなく、立ち入りたいとも思ったこともなかった。もはや別世界だ。

 彼は初めて二号寮に足を踏み入れた。ぱっと見た限りでは一号寮と間取りは変わらないようだ。しかし方角の問題なのか、気のせいなのか月明かりが弱々しく感じる。なんだか一号寮とは空気が違うように思う。冷たい風が吹いてきて、エスラールを威嚇するみたいに撫でていった。

 帰ると言ってもどこに帰ったのだろう。
 エスラールは考えた。普通に考えれば前に住んでいた部屋だろうが、それが何号室なのかわからない。まさか一室一室訪ねて回って探すわけにもいかない。誰かがいれば聞けるのだが、この時間帯では誰かを見つけるのすら難しそうだ――いや、サロンがある。あそこは夜通しランプが点いているから、もしかしたら誰かいるかもしれない。

 エスラールはサロンに向かおうとした。

 が、“二号寮のサロンには幽霊が出るんだ”というエメザレの言葉が頭を駆け抜けて止まった。忘れていればよかったものを、こういう時に限って思い出してしまう。

 あの威嚇するような冷たい風は一体どこからやってきたのだろう。

 幽霊などいるわけがない。そう、いるわけがないのだ。しかし頭ではわかっていても、怖いものは怖いのだ。全く足が進まない。二号寮に一歩入ったところで、エスラールは立ち往生していた。

 情けないが怖い。迷惑を覚悟でヴィゼルを叩き起こして付き合ってもらおうか。でもさすがに悪い気がする。エメザレを見ておけと頼まれたのはエスラールだ。ヴィゼルを巻き込みたくない。

 また強い風が吹いた。夜の肌寒い空気が帰れとばかりにエスラールを押してくる。だがその風がエスラールの耳に微かな音を届けた。

 泣き声だ。すすり泣き、時おり嗚咽が混じっている。猫ではない。鳥でもない。そして幽霊でもない。エメザレだ。泣き声で人物を特定できる特技は持ち合わせていないが、それでもわかる。あれはエメザレの声だ。

「エメザレ」

 エスラールは泣き声のする方へ走った。
 間取りが一号寮と変わらなければ、一階の正面廊下を真っ直ぐ行くと、サロンに辿り着くはずだ。案の定、廊下を真っ直ぐ進んでいると、ぼんやりと明るい空間が見えてきた。やはり二号寮のサロンもランプは点きっぱなしらしい。エスラールは灯を目がけて突進した。


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