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 こうしてサイシャーンの背中を見つめるのは何年ぶりだろうか。たぶん、こんなに近くで見るのは初めてのことだ。二人で連れ立って歩くことも初めてだ。シグリオスタ大護院にいた時、その背中は常に遠く高みにあり、絶対的な恐怖の対象でもあった。その恐るべき存在が、何故今は恐ろしくも同時に優しさのようなものを揺蕩(たゆと)わせているのかが理解できなかった。

 エメザレはサディーレの日記をしっかりと小脇に抱え、サイシャーンの後ろについて歩いていた。

 ガルデンはいうなれば二層構造になっている。内側にある西棟、東棟、一号寮、二号寮の外側に外周千五百メートル、高さ二十五メートルの城壁が聳えているのだ。中央玄関のある東側の城壁には監理棟と呼ばれる荘厳な建物がくっついており、教官室や総監室は監理棟にあった。監理棟は東棟としか繋がっていない。

 唯一の外界との繋がりを持つ東棟には食堂があるため、ちょうど朝食の時間にあたる今は賑わっていた。その食堂のほんのすぐ先に、ガルデンと外界を繋ぐ扉はあった。なんということのない二枚扉で、日常的に目にする場所にごく自然についていた。だが誰も日常的に開けようとはしない。扉の先には短い廊下があり、その先に本当に外へ通じる扉があるのだが、当然硬く閉ざされていて通れないことを、誰もが嫌というほどわかっていたからだ。

 サイシャーンは、壁模様の一部のように日常に溶け込んだ、手前の扉に手を掛けた。いつも見流されている開かずの扉が開くのは妙に新鮮だった。サイシャーンは慣れた様子で入っていったが、エメザレがこの扉を通ったのは、ガルデンに来た時以来だ。僅かな緊張と共に足を踏み入れると、一年前に通った時と同じ、五メートルほどの短い廊下があった。廊下にはなんの装飾品もない。ランプを引っ掛ける金具が壁に一箇所ついているだけだ。

 半ばまで来たところでサイシャーンが唐突に振り向いた。つい珍しさで周囲に意識が向いていたエメザレは、サイシャーンにぶつかる寸前に気付いて止まったが、ふいにドアップで現れた鉄面皮に驚いて叫びかけた。しかも今日は寝ていないせいで目が充血していて、危険な凄みに拍車がかかっている。大護院時代に見ていたら迷わず泣き出していたことだろう。

「な、なんでしょうか」

 エメザレは二歩ほど後ろに下がり聞いた。

「そういえば三本タイは持ってきたかね?」

 サイシャーンに言われて三本タイの存在を思い出した。総監に会うのだ。正装をしていく必要があるだろう。だが、肝心の三本タイは昨日デイシャールに没収されたまま返されていない。

「いえ、持っていません」
「ではこれを付けていきなさい」

 サイシャーンは自分のポケットからきれいに折りたたまれた三本タイを出した。昔であれば絶対に考えられないことだ。この優しさを一体どこで手に入れてきたのか不思議に思いながら、エメザレは恐る恐る差し出された三本タイを受け取った。

「ありがとう……ございます」

 エメザレは三本タイを結んだが、サイシャーンは無表情のままエメザレを見続けている。そういう表情に死ぬほど乏しいところは変わっていない。エメザレとサイシャーンは沈黙を挟んでしばし見つめ合った。

「あの」
「今日、総監室に呼ばれているのは君だけだ。私はついていけない」
「わかっています」

 エメザレが答えた後で、またぎこちない間が空いた。

「私を許してくれ」

 サイシャーンは願うように言った。

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