離婚のきっかけは、俺の不器用さが原因だ。
岡崎はそう言って、遠い目で宙を眺めた。彼の目には何が見えているのか。野口はマグカップに口をつけて、少しだけコーヒーをすすった。
甘い、熱い。甘いかと思えば苦味が後から出てきて、野口は思わずきゅっと眉を寄せてしまった。まだまだ子供である野口にコーヒーは早かったようだ。
岡崎は野口の表情に気付かず続ける。自分がいかに不器用で、妻に対して何もできなかったのかを。自分のこういうところが、きっといけなかったのだろうと。
岡崎が妻と出会ったのは、親がすすめたお見合いだった。結婚する気などなかったが、孫の顔が見たいという親の言葉が断るに断れなくさせたらしく、仕方なしのお見合いだった。
早く終わらせて、縁がなかったと親に伝えよう。そんなことを考えながらのお見合いだったが、岡崎はお見合い相手に惹かれ、この人となら結婚してもいいかもしれない。そう、思ったのだ。
「その当時から、妻には……今となっては元妻か。元妻にはタバコはやめてくれと言われていたんだがな。なかなかタバコはやめられないもんで、だらだら禁煙を先伸ばしにした結果がこれだ」
「タバコ、依存性があるから簡単にやめられないのは当たり前なんじゃないですか? ニコチンがやめられなくするんですよね、保健でやりました」
「そうだな。それでも、妻はタバコを吸う俺は嫌いだったらしい。タバコを吸い始めると直前まで機嫌がよかったのに途端に不機嫌になったからな」
岡崎は口角と眉の端に諦めを浮かべ、苦笑した。妻との家族としての生活はもう過ぎてしまった過去の話だ。そんな顔をするのは仕方ないのかもしれないが、野口はその顔を見るのが嫌でマグカップに口をつけた。
岡崎はタバコをふかしながら、更に続ける。好意をうまく表せずに、よく元妻を怒らせた。懐かしそうに話す岡崎の目は、少し昔を見ているようだ。野口の言い表し難い表情など見えていないのだろう。
誕生日をうまく祝えず、元妻が寝たあとでないとプレゼントを渡せなかったこと。結婚記念日に愛してるの言葉とともに花束を贈ろうとして、恥ずかしさのせいで無表情で花束を押し付けてしまったこと。息子の参観日に行こうにも行けず、それを謝ろうとしてうまく喋れず元妻を傷付けてしまったこと。
岡崎の口からはポンポン不器用ゆえの失敗が語られていく。野口はそれをコーヒーを飲みながら静かに聞くことしか出来なかった。
確かに岡崎は表情が豊かとはお世辞にも言えない。言動だって周りから見たら冷たいような、乾いたような。そんな風にしか見えないかもしれない。
それでも、話を聞いていると岡崎の一生懸命さが十分に伝わってきた。どうすれば喜んでもらえるのか。どうすれば感謝を伝えられるのか。どうすれば、自分がいかに家族を大切にしているかが伝わるのか。
悩みに悩んで起こした行動が、少しから回ってしまっただけなのだ。野口はそう感じた。家族を大切に思っていなかったのなら、懐かしそうに過去のことを話せるはずがない。
瞳の奥に懐かしさと悲しさがごちゃまぜになったような、言葉で表せない複雑な感情がある。岡崎は決して悲しくないのではない。ただ自分が悪かったのだと諦めてしまっているだけなのだ。
「俺は、元妻を大切にしてやれなかった。十数年間岡崎の苗字に縛り付けただけだった。なにもしてやれなかった。だから元妻が俺の元を去っても仕方ないことだ」
「先生、私はそうは思いません。先生はちゃんと奥さんのこと、大事にしてたと思う。大事だって思ってなかったら、結婚指輪、ずっと首から下げてないと思うの。奥さんのこと、好きだから、大切だから、指輪を首から下げてたんでしょ? 私、先生が指輪をかけてないの見るの、今日が初めてですから」
岡崎は返答に困ったらしく、タバコの煙を吸って吐いてを繰り返した。ジージーという蝉の声だけが準備室に響く。扇風機もクーラーもない部屋の中では蝉の声がやけにうるさく聞こえた。
岡崎が口を開きかけた時、それを遮るようにして予鈴が鳴った。野口がはっとした表情で時計に目をやると、岡崎は立ち上がって野口を準備室の外へと押し出した。
「教室に戻れ、遅れるぞ」
そう言って、ぴしゃりと準備室のドアを閉めてしまった。右手のフルーツオレがぬるい。水滴すらなくなってしまった紙パックにちらりと目を向けてから野口は美術準備室のドアをじっと見た。
廊下と美術準備室を隔てるなんの変哲もないドア。いつもなら簡単に開けられるのに、今回だけはそうもいかなかった。手を伸ばしても、開けるまでには至らない。
無性に悲しく、泣きなくなって野口は俯いて唇を噛み締めた。夏の生ぬるい空気の中、遠くで聞こえる同級生の騒ぎ声を聞きながら、誰もいない廊下で一人立ち尽くすしか彼女には出来なかった。
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