美術室を覗いてみると、美術準備室へのドアが開いていて、そこから微かにコーヒーとタバコが混ざった独特な匂いがする。野口の読み通り、岡崎はここにいるようだ。
黒板と教卓の間を通り、開けっ放しのドアから美術準備室に入ると、タバコをふかしながらぼんやり宙を見つめる岡崎がいた。何層にも絵の具が重なり汚れた机の上には、途中まで記入された離婚届。ボールペンが近くに置いてあるところを見ると、今から残りを埋めるところだったのだろう。それを思うと野口の胸にきゅっと締め付けられるような、痛みにも似た悲しみが溢れた。
「先生」
野口の呼びかけに初めて岡崎の目が彼女を捉えた。いつもあまり感情を表に出さない岡崎だが、彼の目には珍しく驚愕が浮かんでいた。
どうやら野口に気付いていなかったらしい。タバコの灰が落ちそうになっていることを知らせれば、慌てて灰皿へ灰を落とした。これも岡崎らしくない。野口は眉尻を下げ、不安そうに岡崎を見つめた。
なにも感じていないわけではなかったのか。どこか諦めに似たため息をつく岡崎を見ながら、野口は唇を噛み締めた。
自分は、馬鹿なことをしようとしていたのではないだろうか。噂になっているわけではないし、誰かに言いふらそうという気持ちもなかった。岡崎の離婚を生徒で知っているのはおそらく野口だけ、もしくはあと数人だろう。
だが噂になっていないところを見ると、離婚について知っているのは野口だけの可能性が高い。結婚だの離婚だの、そういった話題を好む高校生が岡崎の離婚を知って騒がないはずがない。
これは岡崎と野口だけが知り得る事実だった。少し背徳的な感じがするが、中身が中身なだけ切なく、悲しいだけ。野口が口を開く前に岡崎が向かい側の椅子をすすめた。
「座るといい、立ちっぱなしも疲れるだろう」
「え、でも」
「…少し、話をしよう」
岡崎はそれだけ言って、コーヒーメーカーに残っていたコーヒーを新しいマグカップへと注いだ。ひよこのマグカップが岡崎とミスマッチで、野口は空気を読まずつい笑いそうになったがなんとか耐えた。流石にここで笑うほど野口は馬鹿ではない。
砂糖とミルクは。二つに多めで。よくこんな甘いコーヒーが飲めるな。子供ですから。
蝉がうるさく鳴き、五限目が水泳の生徒達更衣室へ移動しながらの会話が聞こえてくる中で、二人の会話はどこか淋しげなものだった。美術準備室が周りとは切り離されたように思えるほど変に静かで、野口は落ち着かずにそわそわと岡崎を見つめるだけ。
スプーンでくるりとかき回してから、少しぬるくなった甘いコーヒーを野口の前へ。何層にも重なった絵の具のせいでボコボコになった机のせいで、コーヒーの水面が斜めになっている。スプーンをつまみ、さらにくるくるとコーヒーをかき混ぜる野口へ、岡崎は授業中と変わらないなんでもないような口調で話始めた。
「俺の離婚の話が聞きたいんだろ」
なにも言っていないのに、聞きたいことを見透かされて、コーヒーをかき混ぜる野口の手が止まる。それを気にせず岡崎は続きを話し出す。
静かな美術準備室に蝉の鳴き声と、岡崎の低い乾いた声だけが静かに響き始めた。
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