野口彩香が担任の谷原が近々結婚するということを聞いたのは、ホームルームが始まる前の廊下だった。チャイムが鳴っているのにまだどこか騒がしい廊下で、谷原は目を細めて言ったのだ。
「先生ね、結婚するの。昨日プロポーズされたのよ」
幸せそうに笑う担任に、野口は何も返せなかった。何か言葉を言うべきなのだろうが、的確な言葉が全く浮かばない。
谷原のことが嫌いなわけではないし、めでたいと思ってはいる。それでも素直に喜べない自分が確かに野口の中にいた。
口を開いた頃には谷原が皆にはまだ内緒ね、と人差し指を唇に当てて子供っぽくウインクをしていた。完全にタイミングを逃した。教室へ歩く谷原の背中をぼんやり見ながら、野口はなんだか複雑な気分のまま、どこか遠い騒がしさの中で突っ立っていることしかできなかった。それが、今朝の出来事である。
それを思い出しながら、野口は画用紙に絵の具を塗りたくっていた。彼女は美術が得意なわけではない。ただ遅れを取りたくないがため、下手なりに作業を進めているだけだ。
野口は美術は得意ではないが、美術教師の岡崎が好きだった。恋愛感情などではなく、ただ教師として。少し不器用で、タバコの匂いのする先生。野口はそんな岡崎がキャンバスに向かう姿や、生徒に指導する姿がたまらなく好きだった。
父親がいたら、きっとこんな人なんだろう。幼い頃に父を事故で亡くした野口は父親というものが良くわからない。だが父親がいたら岡崎のような人だったのかもしれない。いや、そうであってほしいと筆を動かす手を止め思った。
「野口、手を止めるな」
「え、あ、はい!」
「それから、水を足しすぎだ。水は少なくていい」
いつの間に隣に来ていたのだろうか。岡崎がパレットをちらりと見て野口へ絵の具のチューブを差し出した。確かに見てみれば水が多かったかもしれない。
岡崎からチューブを受け取ろうとした時に鼻をかすめたタバコの匂い。先生の匂いだ。野口が岡崎の顔へ視線を移そうとした時、違和感に気付いた。
いつも首から下がっている指輪がない。どんな時も、どんな服の時でも首から下げていた指輪だったのにどうしたのだろう。
今まで首から下げていなかったことなんて一度もなかったのに。なくしてしまったのだろうか。大切なものだろうから、なくすなんてことはなさそうだが……。
チューブを受け取らない野口を不思議に思ったのか、岡崎は彼女の視線の先である自分の胸元を見て納得したような表情で、淡々と言った。
「妻と離婚したんで結婚指輪を外しただけだ」
なんの感情も混ざっていない、乾いた低い声に野口は瞬き以外なにも出来なかった。驚きで声なんて出ないし、同時にどうしてだかこの上なく辛く悲しい気分になったのだ。
教え子と教師。そんな関係でしかないはずなのに、岡崎が離婚したということは、野口には自分に関係あることのように思えた。谷原の時には素直に喜べなかったのに、岡崎のことでは今すぐにでも泣いてしまいそうだった。
どうして離婚したのになんでもないように振舞うのだろう。どうして、もっと辛い顔をしたり、悲しい顔をしないのだろう。
野口にはそれが疑問で仕方なかった。もし先生が泣けないのなら、私が代わりに泣くのに。野口はチューブを受け取り、教卓へ歩いていく岡崎の背を見ながらそんなことを思った。
力を入れすぎて溢れ出た大量の絵の具が、野口の手をどろりと伝い汚していた。
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テーマ「人外ファンタジー」
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