動揺した様子も見せない彼女に、アーリシュはどう話を始めようか少し悩んでいた。ここにエリザベスのを呼んだのは、気になることがあったから。……彼女の武器が、心配で仕方がなかったからだった。
エリザベスの武器は揺らがない意思だった。妹を守りたいという単純で、それでいて真っ直ぐな意思。毎日のように何かしらの死を見る戦場で、壊れてしまいそうな心を何年も踏ん張らせたのはその意思で。それはエリザベスの手の中にある数少ないものの一つだった。
意思なのか、意志なのか。もしくは、そのどちらでもないのか。エリザベスには分からなかった。
彼女を動かし、支えるものが何であれ、エリザベスは変わらない。自分を、何を犠牲にしてでも妹を守るために戦い、傷付く。エリザベスにはそれだけしか残っていないのだから。
空っぽのエリザベス。自分がどこの生まれなのか、フルネームすら明かさない彼女。エリザベスを受け入れたことをアーリシュは後悔はしていない。前線に出しても成果を挙げる。どれだけ危険な戦場でも臆することなく先陣を切る。
軍にとって、エリザベスという人間はただただありがたかった。命令にも従い、期待した以上の結果を出す。
だからこそ、アーリシュはエリザベスが心配だった。意思の力は恐ろしい。どんなに絶望的な状況でも、意思があればなんとかなるものである。
意思は一番の武器であり、同時にいつ壊れるか分からない不安定な足場だ。一度揺らげばあっという間に崩壊する。例外は、ない。一度揺らいだ意思は直ることなく一気に崩れ落ち、希望を、未来を奪う。
「そろそろお前の素性を明かしてもいいんじゃないか。いつまでも隠し通すのは無理だろ?」
「……」
「……はあ。素性を明かすのが無理なら、お前がここに来た目的を具体的に聞かせろ。何かを守るためにここに来たのは前に聞いた、そのお前が守りたいものってのはなんだ」
言葉のあとに落ちる沈黙。エリザベスの唇はきゅっと結ばれていて、開く気配は全くない。表情を伺おうにも、頬まで伸びた前髪と、その下につけられている眼帯が左目を隠し、どんな顔をしているのかよく分からない。分かるのは困ったように寄せられた眉と、固く閉ざされた口。どうもあまり言いたくはないらしい。
――どうしたもんか。アーリシュはむっとした表情が出ないように気をつけながら、ぐしゃぐしゃと頭をかき回した。机についた頬杖のせいでぐにゃりと頬が押し上げられ不機嫌そうに見える。事実不機嫌ではあるのだが。
エリザベスがエンパード軍に入軍してから既に数年。自分で切ったのか不揃いだった短い髪は伸び、今では一つに結い上げている。入軍した時から変わらないのは彼女が自分の事について話したがらないことと、前髪と眼帯で左目を隠していること、それから揺らぐことのない意思。たったそれだけ。
数年たってもエリザベスのことで知っていることは少ない。軍には馴染めている筈なのに、自分の事を聞かれると言葉を濁して口をつぐんでしまう。
軍でも一二を争う実力の持ち主だが、謎。軍に馴染んでいるとはいえ、エリザベスはどこか少しだけ他の兵より浮いていた。
「守りたいものすら言いたくないのか」
「……これを言うと、素性も必然的に話すことになりますから」
「……。そうか。ならば命じる、言え」
慈悲もなにもない、冷たい一言だった。お世辞にも表情が豊かだとは言えないエリザベスの顔にも、困惑やら驚愕やら葛藤やらが混じった複雑な表情が浮かぶ。
アーリシュの命令は絶対だ。それは彼女が決めたことであり、従うべきだと考えるもの。アーリシュに家と命じられた以上、妹のことについて言わなければならない。
だが、妹について話せば必然的にエリザベス自身の生まれを話すこととなる。それでは今まで数年間素性をひた隠しにしてきた努力が水の泡だ。
話さなくてはならないが、話したくはない。エリザベスの隠してきたことは、アーリシュが想像をしているよりもはるかに重大なこと。言わねばならないことは喉元までせり上がっているのに、唇が動いてくれない。ふるふると震えるだけで、ちっとも言葉を紡ごうとはしてくれないのだ。
「どうした、お前の守りたいものってのは、言葉にするのがためらわれるものなのか?」
「ちっ、違う……! あの子は、あの子はそんなものじゃありません!」
「なら、なぜお前は頑なに言おうとしない? 口に出しても問題ないのなら、すぐに言えるはずだろう」
「……私の妹が、ウィルジアの魔女、だからです」
視線を落とし、困ったように眉を下げ、俯いたエリザベス。その口は結ばれているが、情けなくもその口角は下がっていた。
蚊の鳴くような声で落とされた爆弾に、アーリシュは目を何度も瞬かせた。持ち上げたカップを落としかけるくらいにはエリザベスの告げた言葉に驚いた。
――私の妹が、ウィルジアの魔女、だからです。
確かに、彼女は間違いなくそう言った。目の前で小さくなっている、身長の高い女が魔女の姉だというのか。
アーリシュは返す言葉もなく、ただエリザベスを凝視するしか出来なかった。こちこちと柱時計がたてる音がやけに耳に付く。何回振り子が往復したかわからないが、だいぶ時間がたってからようやくアーリシュが口を開いた。
「お前が、シルベーヌ殿の姉だってのか……? お前、無茶だぞその嘘は……。髪色が違いすぎるだろ」
「なぜあの子の名を……まさか、午前にこちらにいらっしゃらなかったのは、霧の森へ……? 不侵の境界をこえるなんて何を勝手な真似をしてらっしゃるんですか…!?」
しまった、口を滑らせた。アーリシュはこの上なく都合の悪そうな顔をした。酸化したコーヒーを間違えて口に含んでしまったような顔。エリザベスが今までに数回見たことがあるかないか、そんな顔をして気まずそうに視線をそらせる。誤魔化そうとしているらしいが、自分で霧の森へ行ったことを証明してどうするのだろう。エリザベスは何も言えず少し怒ったような顔でため息をつくしか出来なかった。
「あの子に……シルベーヌにあったんですか」
「……」
「沈黙は肯定とみなします。不侵の境界を超えてはならないというのは、暗黙の了解のはずです。大佐殿、勝手な行動は謹んでもらいたい 」
「いや、その、な? 例外だってある…… 」
「例外はありません。今後、不侵の境界を超えるようなことがあったら、私は本気で大佐殿を怒りますからね」
――それで、シルベーヌは元気でしたか。
いつも何があろうと能面のように表情の変わらない、エリザベスの表情が珍しく変わった。悲しそうな、辛そうな、見ていて胸がしめつけられるような表情。
その表情にアーリシュは口をつぐみ、少し考えてから答えた。それなりに、元気ではあったが本当に元気かどうかは知らん。なんとも微妙な言葉に、エリザベスは複雑な表情を浮かべるばかり。
元気ではあるようだが、アーリシュの言葉はどうも引っかかる。本当の意味で元気ではないのかもしれないが、エリザベスにはどうしてやることも出来ないのだ。
エンパード軍に所属している以上、不侵の境界をこえることはできない。不侵の境界を越えた先にある自分の家に帰ることは不可能なのだ。家に帰れなければシルベーヌと話すことも、触れることも出来ない。
簡単にエンパード軍に入軍するんじゃなかった。幼かった自分の安直な考えを、エリザベスはただただ呪った。
本部からそう遠くないところにシルベーヌはいるのに、簡単に越えられたはずの境界線が行く手を阻む。交渉したり、脅したりするわけではなく、ただ顔が見たいだけなのに。それすらも叶いやしないのだ。
沈んだ顔のエリザベスにアーリシュはもみ消していたはずの葉巻をふかしながら、淡々と告げる。
「エリザベス。お前には三週間後、軍をやめてもらう」
「……何を、おっしゃっているんですか」
「三週間後に軍から追い出すって言ってんだよ。お前の居場所はここじゃねえ」
「ちょ、ちょっと待ってください! どういうことですか、私は軍をやめるわけには……! シルベーヌを守るために私は……!」
「うるせえ、黙れ。俺が命令してる、お前はそれに従えばいいだけだ」
「……っ!」
これっぽっちの配慮も、あたたかさもない言葉。刃物のようにずぶりとエリザベスの胸に刺さったそれに、彼女はただ涙が溢れそうになるのを堪えるしかできなかった。
返答はイエスしか許されていない。くゆる葉巻の煙の向こうに見えるアーリシュの顔には、恐ろしいほどなんの表情も浮かんでいなかった。
何を言っても、きっと無駄。エリザベスにはそれが分かってしまっている。命令と言われている以上、どんなことを言おうとアーリシュは何を言われても自身の言葉を撤回することはない。
――ああ、どうしてこんなことに。
エリザベスは涙の滲んできた目でアーリシュを見つめるのが精一杯だった。それから少し経ってから、エリザベスはそっと唇を開き、分かりましたとだけ伝え、すぐに部屋を後にした。
一人部屋に残されたアーリシュは、半分ほどの短さになった葉巻をまた灰皿に押し付けて消し、煙とともに漏らした。
「どうして、こうなったかね」
彼の言葉は煙と混ざり合い、誰もいない部屋の中でただ霧散して消えていった。
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