霧の森を背に、本部へ歩き出したエリザベスは歩きながら戦うことの意味を考えるのをやめ、ただひたすらに人を殺し始めたのはいつ頃からだったのかを考えていた。戦い始めた頃から、エリザベスの胸の中には明確な目的があるのに、どうしてこんなにも戦うことが虚しいのだろう。
アーリシュに前線から離され砲撃手になってだいぶ時間が経つ。前線にいた頃より人を殺しているという実感が薄れ、エリザベスの罪悪感や恐れは確実に麻痺していた。
たった一人、守りたい人がいるから。自分がどれだけ苦しく、辛い思いをしても、ただ守りたかったから。なんだって、できる気がしたのだ。自分の手を汚してでも、大罪人になってでも、たった一人――妹のためならば。エリザベスはなんだってできる気がしていた。
女神の聖戦の最中、魔女狩りの生き残りがいたと危うく殺されかけた妹を必死で守ったあの時から、エリザベスを縛るものは何もなくなった。
殺したのが一人であれ、多数であれ。目的が正義の為でも、快楽のためでも。罪人であることは変わらないし、自分を騙すことはできない。
きっとあの時、人として切ってはいけない糸を切ってしまったのだろう。エリザベスは自分の両手に視線を落とした。
今までに何人殺しただろう。どれほどこの手は汚れているのだろう。考えたところで答えなどでやしなかった。途中から数えることをやめてしまったのだから。
「軍曹殿」
「なんだ」
「大佐殿がお呼びです、話があるとおっしゃっていました」
「そうか、分かった。手間をかけさせたな」
「いえ、滅相もありません!」
自室へ戻ろうとしていたエリザベスに声をかけたのは、彼女の砲撃班に所属する二等兵だった。
ジギアスの報告はもう終わったのだろうか。こんなに早くは終わらないと思ったのに。
そう思いながらエリザベスもは敬礼した二等兵に背を向け、アーリシュの呼び出しに応じるため彼の元へ向かう。エリザベスを軍に迎え入れたのは、ほかでもないアーリシュだった。
男ばかりの軍に女は必要ない。何も持たず、空っぽでエンパード軍に志願したとき、周りの志願者は口には出さないものの確かにそう、エリザベスへ言っていた。彼女に向けられる視線が、言葉が。それ以外にも沢山のものがエリザベスを拒絶していた。
何年も前の記憶のはずなのに、未だに昨日のことのように鮮明に思い出せる。それほどにあの雰囲気は強烈で、エリザベスの自尊心を傷つけた。
どこへも行けず、宙ぶらりんになるしかないのか。失望し、諦めかけたその時。いい目をしていると言って、大佐であるアーリシュがエリザベスの入軍を許した。
エリザベスにとって、アーリシュは恩人なのだ。彼があの時入軍を許していなければ、エリザベスはエンパード軍にいない。根無し草になっていてもおかしくはなかった。アーリシュはそんな彼女をしっかりと繋ぎとめておいてくれる。
彼には感謝してもしきれない。体力的に男より劣る自分を軍に置いておいてくれているのだ。そんな彼の呼び出しにはすぐ応じなければならない。エリザベスの中でアーリシュは妹と同じくらいに絶対的な存在だった。
妹とアーリシュ。どちらを取るかと問われれば妹と答えるだろうが、戦争が終わるまではアーリシュの立ち位置は変わらないだろう。
「大佐殿、エリザベスです」
「入れ」
「はっ」
短く返し、廊下と部屋を隔てるドアを静かに押しあけた。古い紙とインクの独特な匂いに、ほのかなコーヒーの香り。不思議な、匂い。いつものアーリシュの匂いがした。
何年も変わらない匂いに、何年にもわたる戦いで固まった心が少し解けたような気がする。アーリシュは書類に視線を落としたまま、手探りで葉巻をくわえ火をつけた。無意識だったようで、葉巻から煙がのぼり始めて初めて驚いたような顔をあげた。
「お前は葉巻は好きでなかったな」
「あまり好んではいませんがお気になさらず。灰皿はどこにありますか」
「灰皿は確かその書類の下のほうだったか。話をしながら探す、気にするな」
アーリシュは一度煙を吐いて葉巻をくわえ直し、がさがさと書類の海をかき分け灰皿を探し始めた。彼が乱暴にかき分けた書類が床へ落ち、今度は床が書類の海になりそうだ。
灰が落ちかけている葉巻をヒヤヒヤしながら横目で見つつ、エリザベスは床に落ちた書類を一枚ずつ拾い上げる。アーリシュはこの上ないめんどくさがりで、床に書類を落としても拾ったりなんかしない。足の踏み場がなくなって、書類を破くようになってから渋々片付けるのだ。机の上が洪水になっているのはまだいい方。なんとかそれだけにとどめなければ。エリザベスはため息をつきたくなるのを我慢してひらひらと際限なく落ちてくる書類をせっせと拾った。
「大佐殿、用というのは」
「ジギアスにお前を前線に戻せと何度も言われていてな。前線に戻りたいか?」
「……なんともいえません。自分は、命じられた場所で役目を果たすだけですから」
「……そういうと思った」
葉巻のせいで少し聞き取りにくい言葉が、ため息と煙と共に口からこぼれ落ちた。声色からはアーリシュの感情も、考えも読み取れない。
ようやく灰皿を見つけたのか、頭上の紙がたてるがさがさという音が消えた。書類を拾い終え立ち上がると、アーリシュの視線とエリザベスの視線がばちりとぶつかった。
なにが一番いいのか。長い時間をかけ煙を吐いてから、アーリシュはまだ長い葉巻の火をもみ消した。葉巻の煙で少し白っぽい視界の中、エリザベスもアーリシュも真面目な顔をして黙っている。
少し時間がたち考えがまとまったのか、アーリシュがゆっくりと唇を開いた。
「お前をどこにおいておくか、俺は決めかねている。勘違いするなよ、お前が無能なんじゃない。有能だからこそ、意志が揺らがないからこそ、お前をどこに配置すればいいのか分からない」
――だから、少し話をしようじゃないか。
アーリシュらしくない言葉に、エリザベスの胸がざわついた。よくないことが言い渡される気がする。顔をしかめそうになるのを堪えて、彼女はただはいとだけ返す。
エリザベスの言葉に、アーリシュの表情が少し綻んだ。
……これは本格的によくない話がくる準備をした方がよさそうだ。ポーカーフェイスを貼り付けて、エリザベスはアーリシュの唇が紡ぐ言葉の続きを待った。
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