生温い風に乗せられて砲撃手の鼻に届いたのは、火薬の臭いと、鉄の臭い……それから人の焼ける臭いだった。
長く続く戦争で、砲撃手の心は疲れきっていた。考えることが億劫で、もう戦うことに関して何も考えないようになってしまっていた。
火薬を詰め、大砲で敵陣に鉄球を撃ち込む。他国にはないカガクと呼ばれる力を使い、エンパード軍はイザイル軍の進撃を退けていた。
「エリザベス軍曹、もうイザイルは攻めてこないようですがどうしますか」
「後は前に任せればいいだろう。あまり火薬を使いすぎるのはよくない」
「分かりました。他の砲撃手にも伝えてきます」
砲撃手――エリザベスにそう言って走り去ったのは、彼女の部下に当たるロレンス。すすき色の髪が綺麗な、真面目すぎるほど真面目な青年だった。
ロレンスを見送り、エリザベスは戦場を見つめていた。毎日のようにエンパードへ侵略してこようとするイザイル軍の兵隊の数は、目に見えて減っている。
カガクの力を用いた、大砲という武器の力の前ではどんな軍隊も足元に及ばない。それが大した武器を持たない軍ならなおさらだ。丸腰同然で向かってくるイザイルを退けることなど、腕を這い登ってきた虫を払いのけることと同じくらいにたやすいことだった。
負けると分かっているだろうに。エリザベスは撤退し始めたイザイル軍を見ながらそう思った。向こうの大佐は何を考えているのか。
噂によれば頭が切れる男らしいが、やっていることを見るとそれが本当なのかにわかに信じ難い。ただいたずらに兵を殺すことにしかならないのに、なぜ進撃をやめないのか。ただただそれが疑問だった。
「エリー。今日もうまくやったようだね」
「お褒めのお言葉、ありがとうございます」
「僕に敬語はいらないって言ったと思ったんだけどな……。そろそろエリーも砲撃手から僕の中隊に戻ってくればいいのに。君なら近接戦でも問題なくこなせるだろうに。鬼軍曹なんて呼ばれてるくらいなんだから」
「……その嬉しくない呼び名はなんでしょうか。お言葉はありがたいですが、私はジギアス大尉の中隊には戻れません。大佐からそう言いつけられていますので」
「全く……。アーリシュの坊ちゃんも何を考えてるんだか。エリーは砲撃手よりも前線で剣を振り回してる方がはるかに性に合ってるのにね」
呆れたようにため息をつく初老の男性。丸メガネの奥の目は解せぬと言っているように見える。
白髪の混じってきた群青色の髪。老いを感じさせない伸びた背筋。エリザベスをエリーと呼び、彼女に親しくする彼の名はジギアスと言った。サトリのジギアスと裏で呼ばれるほど、彼は人の考えていることを読み取るのが得意だった。大佐をアーリシュの坊ちゃんと呼べるのもジギアスだけである。
エリザベスは彼に返す言葉もなく、はあと相槌を打つしかできない。確かに後衛よりは前衛の方が得意かもしれないが、剣を振り回すのはそこまで好きではない。守るべきもののためなら刃を抜くが、イザイルを追い返すのには大砲で十分だ。
「さて、僕は坊ちゃんに報告でもしてこようかな」
「報告を優先さてください」
「さっきまではそのつもりだったんだけどね。エリーが見えたから」
「……」
なんと返せばいいのか。エリザベスはうまい言葉が見つからず、困ったような渋い顔をするだけ。
いつまでたっても若々しいというか、子供っぽいというか。良い意味でも悪い意味でもジギアスは歳をとらない。
ひらひらと手を振りながら歩き出すジギアスに敬礼を返した後、エリザベスは彼とは真逆の方向に歩き出した。切り立った崖を北へ、北へ。
エリザベスが立ち止まったところは、ウィルジアの霧の森が見える場所だった。特に表情を浮かべず、冷めた目で森を見ているエリザベスの肩にぽん、と骨ばった手が置かれた。
何かあった時のために。特に帯刀する必要のない護身刀へ手をかけながら身を返せば、驚きと困惑の入り交じった表情を浮かべるロレンスが行き場を失った左手を宙にさ迷わせていた。
ロレンスか。一瞬敵かと身構えただけ、自分の部下で呆気にとられたというか。一瞬目をぱちくりさせ、年相応な顔を見せたエリザベスだったが、すぐに取り繕って口を開く。
「……その、悪かった、ぼんやりしていたんで確認する前に護身刀に手をかけてしまった」
「いえ、声をかけずにいきなり肩に手を置いた自分が悪いですから」
「そ、そうか。こんなところまでどうした、私に何か用か」
「特に用と言った用もないのですが、本部に帰って来られていないようでしたから。それにここはウィルジアとの国境……と言っていいのかわかりませんが、境界線ですからあまり長居しない方がよいかと思いまして」
「確かに、そうだな。不侵の境界の近くにいるのは自軍からも他軍からもよく思われないか。私が軽率だった」
不侵の境界。女神の聖戦で負けた国教会側と正教会側の国を分かつ、超えてはならない境界線。
パイのように簡単に分配されれば、こんな境界線も戦争も起きなかっただろうに。人間は欲深い生き物だ。戦争の最中だとそれを嫌になるほど目の当たりにさせられる。
――ただ、守りたいだけではいけなかったのか。エリザベスは先に歩き出したロレンスの背中を追うようにして足を踏み出した。
どこで道を踏み違えてしまったのか。振り返った視線の先に変わらずある霧の森は、どこかエリザベスを拒絶しているような、そんな風に思えた。
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