あの男が訪れてから一週間。戦争にはなんの進展もなく、ただただ時間だけが過ぎていく。先手を打ったイザイルも次の手を打てずに、各国の軍隊と押しては引いてを繰り返していた。
長期戦になれば物量的に厳しいだろうに、イザイルは足踏みをしている。エンパードはシルベーヌの言葉を信じ、わざと戦争を長引かせようとしている節があり、もし本当に戦争が長引いたのならイザイルは確実に負けることになるだろう。
大体の予想はついている。シルベーヌの読みが当たっていれば、勝つのは大国エンパード、もしくはディアフィル。比較的資源や労働力の豊富な二国が勝つ可能性が高い。
――どこが勝っても、変わらないだろうに。シルベーヌはどこか冷めていた。どこか勝とうが、シルベーヌの置かれる環境に変わりはないだろうし、彼女の生活も、やることもほぼ変わりはない。
強いていうなら、魔女として更に多くの人に知られるだけか。今よりもっと遠巻きにされるのだろう。それを思うと、戦争が終わろうが終わらまいが何も変わらないのだ。シルベーヌははあ、と小さく溜め息をついて、分厚い本の表紙を開いた。
だが本文を読む前に窓が叩かれ、ガラスを通したがために小さな聞き覚えのある声が聞こえた。
「魔女殿、魔女殿」
「……また来たのか」
「また来ると言いましたからね。一週間前、言いませんでしたっけ?」
「……さあ、覚えていないな」
驚くやら呆れるやらで、シルベーヌはそう言うので精一杯だった。どうやら森で迷って死んではいなかったらしい。
それに気付かない男は窓越しにニコニコと笑いかけてくる。帰る気はないらしく、立ち去る様子も見せずただただその場に突ったっている。
相手などしてやるものか。無視を決め込もうと本に視線を落としていたシルベーヌだったが、視界の端から消えない男に折れた。
本を閉じ、仕方なしに立ち上がって窓を開いてやれば、男は嬉しそうにありがとうございますとまた笑う。
――まるで犬だな。あれやこれやと話をする男をじっと見ながら、そんなことを思った。人懐っこさとどことなくにじむ賢さ。例えるならゴールデンレトリバーだろうか。ただし、躾のなっていない。
自分が犬だと思われていることなど知らない男は足元から数冊の本をシルベーヌへ差し出した。
「魔女殿、これをどうぞ」
「……なんのつもりだ?」
「先週魔女殿が本が好きだとおっしゃったじゃないですか! だから持ってきたんですよ」
「……。君は馬鹿か」
少しの間の後に出た言葉は、困惑より呆れが強い一言だった。運良く迷いの森で野垂れ死にしなかったというのに、なぜわざわざこの屋敷までくるのか。
しかも、迷った時になんの役にも立たない本を持って、だ。目の前の男が簡単な発火装置か発火魔法を使えれば暖を取れるかもしれないが、まあまず発火装置を持っているようには思えない。
今度迷ったら確実に死ぬだろうな。シルベーヌは本を受け取る素振りを見せず、男をじとっとした目で見ていた。
男は本を受け取らないシルベーヌを不思議に思ったのか、一度腕を引いて本の表紙をまじまじと見ている。差し出した本に問題があったのだろうか。不安そうに下がった眉からは、そう思っているだろうことが簡単に読み取れた。
そういうわけではないのだけれど。シルベーヌは小さくため息をついてから、男の方へ手を伸ばした。
本を寄越せ。数回腕を上下させれば、ぱっと目を輝かせて本を差し出す。……やはり犬にしか見えない。
「ディアフィルでベストセラーの小説なんですよ!」
「……小説、か」
「魔女殿は本が好きだとおっしゃっていたじゃないですか、なんとか動いていた印刷所に無理を言って刷ってもらったんです! ……はっ、もしかして魔女殿はディアフィルの文字は苦手、ですか……?」
「……君は私を馬鹿にしているのか? ディアフィル文字を書くのは得意ではないけれど、読むのは問題ない」
「なら良かったです! 今度はおかしか洋服を持ってきますね! 私はそろそろ帰ります、小説の感想聞かせてくださいね!」
シルベーヌが礼をいう前に、男は手を振って走り出していた。本当にマイペースというか、自分勝手というか。
男にもらった小説の背表紙をそっと指で撫でた。何冊にも及ぶ長編らしい。読み終わるのに時間はどれくらいかかるだろうか。よい暇つぶしになってくれればいいけれど。
小説を読むのは何年ぶりだろう。専門書しかない書斎にこもるようになった時間を実感して無性に寂しくなった。
……いつになれば、寂しい生活を送らずにすむようになるのだろう。
未だに読むことのできない、表紙にクレヨンで落書きされた分厚く古い帳簿のことを思った。あの帳簿を読めるようになったら、その時は姉がまたそばで笑ってくれるのだろうか。
「姉様、寂しい……」
ポツリと呟かれた言葉は静かな書斎でやけに大きく響き、消えた。
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