目を覚ませば、良い匂いが漂ってきた。これはパンの匂い。朝起きたと同時に朝食の匂いがするのはとても気持ちよく、京介は体を起こしたが、目はまだ開かなかった。眩しい日から逃げる様背中を丸まらせ、まくらに顔を埋める。
 ドアが叩かれた。兄さんか、と思いながらもぼんやりとした意識の中開かれたドアに向かって呟く。

「兄さん、あと五分」

 こう言うと後五分だけだぞ、と怒ったようで優しい、心地よい声が流れてきていた。だが、今日は何も言われない。もう出て行ってしまったのかと、なんとか片目を開けてドアを見ると其処には豪炎寺が立っていた。京介は目が合った瞬間、飛び上がる。そうだ、自分は豪炎寺の家に止まっていたのだ。

「あ、いや、すいません、今起きますっ」
「ふ、まだ寝ていてもいいぞ?」
「良いです!」
「そうか、じゃあ、着替えて顔を洗ったらリビングに来なさい。朝食は出来てる」

 もう豪炎寺は間違えたことを気にしていないようで京介は借りたスウェットを素早く脱いで、自分の気慣れたTシャツを着込むとズボンも履き替えた。スリッパをはいて洗面所に行くと、ご丁寧にタオルと昨日新品で渡された歯ブラシと歯磨き粉が置いてある。何を配慮してかワックスも置かれていて京介は豪炎寺のぬかりのなさには感心した。
 すっきりした顔でリビングに行けば、足を組んでニュースを見る豪炎寺が待っている。豪炎寺は京介を見るなり立ち上がると、京介の椅子を出して席へ促した。その行動は自分がれレディーとして扱われているようで居心地が悪くなる。目の前にはサンドウィッチにコンソメスープ、軽いサラダなどがあり目を見張る京介に豪炎寺は笑う。

「サンドウィッチは、作ってみたんだが。他は市販ですまない」
「別にそれを気にしている訳じゃ。ここまでしてもらって悪いなって」
「気にするな、俺がしたくてしてるだけなんだから」

 豪炎寺はこう言うが、気にするものは気にするに決まっていた。京介は一度頭を下げていただきます、と言うと豪炎寺は笑いながらサンドウィッチに手を出す。

「そういえば、剣城は兄がいるんだな」
「…そうですけど」
「そんな顔するな、さっきのことを掘り返したい訳じゃない。俺は下に妹が居るが、もう二年前から違う家でな。誰かと朝食をとるのは久しぶりなんだ。」

 だから嬉しい、とでも言いたいのか。豪炎寺の頬は緩み切っていた。先ほどからよく笑うと思えば、京介の世話をしているのが妹と重なって思い出したからなのだと分かる。妹の事本当に好きなのだな、と思うと、兄妹想いの豪炎寺に心が開ける気がした。パクパク進む朝食に、向かい側に人。久しぶりに兄に会いたくなった。



「練習頑張るんだぞ」
「すみません、ありがとうございました」

 豪炎寺は京介の言葉に目だけ笑って見せて、窓を閉めると何も言わずに車を走らせていく。京介はその車を見送って、深呼吸一つして校門をくぐった。

「よお!」
「!?」

 背後の衝撃に剣城は後ろを向くと背中を叩いた本人がいる。犯人は円堂で、剣城が顔を歪ませても気にしていない様子で隣に移動して来た。

「おはよう!」
「…」
「おい、無視か? 俺だって傷付くんだけどな」
「うるせー」
「なんか言ったか」
「いえ、なにも」

 小さく暴言を吐くが円堂にはきかないようで、わざと早歩きする剣城についてくる。このままサッカーの朝練に行くので、部室まで一緒という地獄の時間だった。もう黙っていようと下を向いた時、円堂が口を開く。

「で、昨日の夜はどこに行ってたんだ?」

 驚いて顔をあげれば、鼻の先が当たるのではないかと言うくらい近くにいた。剣城は後ずさり距離を置こうとするが、円堂はそんな剣城の肩を片腕で持ち引き寄せる。まだ早い時間なので誰もいないが、ここは外で誰に見られるか分からないので剣城は早く話して欲しかった。だが、昨日豪炎寺の所に行っていたことは意地でも言いたくない。豪炎寺がとばっちりを受けるかもしれないからだ。黙秘をすれば段々近づいてくる円堂に剣城は耐えられず、顔を逸らす。

「何処にも、行ってない」
「うそつくなよ、うちのアパートの壁は薄いんだ。物音一つもしないなんて可笑しいし、第一お前帰ってもないな」

 円堂のいう通りで、この嘘は通じないと痛感した。どうやって言い訳しようと頭を巡らせていると、毎朝に来たメールを思い出す。剣城は円堂の胸を強く押すがびくともしないので、もう一度嘘をいうことにした。

「兄さんの…兄の家に泊まっていたんだ。最終電車に乗り遅れて、そのまま泊まった、だけだ。」

 これがバレたらもう目つぶししてでも逃げよう、剣城はそんな怖い覚悟をしながら円堂の瞳を見つめる。円堂は細めた目で見下すが、剣城は狼狽えずに睨み返した。
 すると、円堂は笑顔を浮かべる。

「そっか! なんだ、兄さんの所なら心配ないな。良かった」
「別にあんたには関係ないだろ」
「あるよ」

 肩に掛けた手に力を入れて一気に引き寄せ、思いのまま唇を重ねた。剣城は頭で理解する前に手が出たがすぐに避けられる。それがまた悔しかった。

「なにを…!!」
「いいだろ、俺ら恋人同士なんだから」
「はあ!?」

 剣城が叫べば、円堂はニヤリと笑う。

「覚えてないとは言わせないぞ、付き合った時の言葉。俺らは合意の元付き合った。だが、まだ別れてはない。だから俺らはまだコイビトだ。だからお前が泊まるなら誰の所に行ったか聞く権利がある。無断外泊は心配で夜も眠れないなー」

 円堂はわざとらしく不安げな表情を浮かべて挑発してくるが、剣城は怒ることもできなかった。まだ付き合っているという馬鹿げた事が、のしかかってきたからである。馬鹿げている、馬鹿げているのだ、でもそれを自分は最近まで本気に受け取っていた、本気で彼を好きでいた。そして、
 まだ、彼を想う心がある。
 まだ付き合っていると言われて、心臓が飛び跳ねた。自分でもこの感情が何なのかは分からない。ただ、良くないということは嫌でも分かった。剣城は爪が食い込むくらい拳を握り、円堂を見た。

「わ、別れたい」
「え? まだ一週間もたっていないのにか、酷いぞ?」
「なんでもいい、もうどうとでも言え。だからもう、関わらないで…」
「やだよ」

 懇願は無残にも聞かれもせずに口から出て消える。円堂はゆっくり剣城の頬をなぞった。

「いいか、別れるも別れないも俺が決める、俺はまだお前で楽しみたいんだよな。あ、別れるとか言い出したら…そうだな、どんな手を使ってでもお前を苦しめてやる、おれは言ったらやる子だぞ? わかるよな、お前は俺のもの。そんで俺は自分のものに手を出されるのが一番嫌いなんだよ。だからさ、今度無断外泊でもしてみろ、立てないくらいに可愛がってやるよ」

 円堂がうっとりとした表をしながら耳元で囁かれ、剣城はブルリと震える。さすがに耐えられなくなったとき円堂の緩んだ手に気付いた。考える前にその手を振り払い、その場を走り抜ける。あれだけ自分を掴んでいた手は簡単に外された。だが、彼の手は、本当に離されたわけでは無い。まだ腕に残っている熱い感覚。円堂は人を騙し、人の不幸を笑い、怖い人物だ。これ以上に危険人物はいないと思う。だが、今の剣城にはそれすら考えられなかった。走る前から早い鼓動を押さえるように心臓に手をかざす。

 あんな人をまだ好きだなんて、思う自分が一番怖かった。









 


 
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