玄関に取り付けられた鏡を眺めて、京介は背中を見る。背中のアザはまだ残っているが、痛みはかなり引いた。撫でてみて、入学してから体験した日々を思い出す。中学と比べて、少し楽しかった。友達、と呼べるものが出来たし、先輩たちが辞めさせられた一件から先輩には嫌がらせや好奇の目もなくなった。充実した日々だ、ただひとつ除いて。
 家の扉を開けると、同じタイミングでとなりの部屋の扉も開いた。音が重なったのを聞いて横を驚いて見ると、隣人は照れ臭そうに笑った。

「おはよう」

(この人を見ていると、どうも調子が狂う)
 そう、京介の悩みの種はこの隣人、円堂のせいであった。笑って誰でも受け入れるような顔をしながら、腹の底は見せない。それがこわいのに、引き寄せられるのは兄のような大人の優しさを向けられるからであった。自分を慈しむような目を見せる彼が、剣城からしてみれば弱点だ。
 あまり関わらないようにと苦笑いしながら円堂に背を向けると、円堂はちょっと待てと声を掛けてくる。なにかと立ち止まってみれば、円堂はバタバタと部屋へと戻っていった。なにがしたいのだ、と彼の部屋の扉を見れば、せわしく扉はまた開く。そしてそこには、あめを持った円堂がいた。

「今日一日頑張れよ!」

 言いながら京介にあめを渡すと、慌てながら階段を下っていく。歩きの円堂からしてみれば遅い時間だ、急ぐのは賢明な判断であった。京介は貰ったあめを見つめながら、小さい頃に兄から貰ったお菓子の数々を思い出す。もう子供じゃないと意地を張っても、兄は両親から貰ったお菓子はすべて京介にくれた。そして反論しながらも、そんな兄が大好きだった。無意識であるが甘えるのも甘やかせられるのも、嬉しかったのだ。
(別に、そんな嬉しくねぇけど…)
 緩みそうになる口元をしっかりと管理して、京介は自転車を跨ぐ。円堂が走っているのをみて、少し笑ってしまった。




 一日いつもと変わらぬ日々を過ごし、時は放課後。先輩の嫌がらせはなくなり、逆に腫れ物のように扱われているが殴られるよりはましなので、スムーズに練習も終わり京介は上機嫌で着替えていた。騒がしい更衣室では着替えたくないので、いつも人気のないトイレで着替えている。着替え終わりトイレを出ると、おい、と声がした。自分に話し掛けているとは思わなかったのだが、一応声のした方へ目を向けるとそこには豪炎寺が立っている。その鋭い視線が自分に向いていると知り、京介はひぐ、とないた。

「こ、こんにちは」
「ああ。剣城話がある、来い」
「は…」

 聞き返す間もなく、首根っこを掴まれてずるずると引きずられる。無表情のままなので何を考えているのか分からず、なんでこんな状況になったかと考えたが、一向に答えは出てこなかった。豪炎寺は中庭にあるベンチを見つけると、そこへ京介を放り投げてその前に立つ。京介は似合わないが少し怯えながら豪炎寺が口を開くのをまった。

「剣城」
「はい…」
「お前、円堂と同じアパートなのか」

 京介はびっくりした、と言っているような顔で豪炎寺を見つめる。豪炎寺の表情からはその質問の意味さえ読み取ることはできず、京介は戸惑うしかなかった。
 隠す必要はない。学校の者ならば噂が広がれば面倒なので隠したくもなるが、彼は週に一度、しかもサッカー部にしか来ないコーチである。なにを言った所で噂になることはないだろう。なにより、豪炎寺が面白半分で言いふらすような輩には見えなかった。
 なぜか、不機嫌そうな豪炎寺を目の前にして、京介は自分の膝をつねるように指に力をいれる。

「そう、ですけど」
「そうか。単刀直入に聞く、お前は円堂が好きか」
「はぁあ?」

 驚いてあげた声に、自分でもびっくりした。すぐにすいません、と言いながら口をつぐむ。

「別にいい。それより質問に答えてくれ」
「いや、あの、質問の意味がわからないんです、けど」

 京介が訝しげな顔で豪炎寺を見ると、豪炎寺は咳払いをした。そうして京介のとなりに座ると、仏頂面はどこへ行ったのやら。きつくつり上がった目尻が垂れ下がると、少し笑いながら京介を見る。

「はは、すまない。今の質問は忘れてくれないか」

(この人、笑うと凄くかっこいいな…)
 怪我を治療されたときもまじまじと見て思ったが、灰色掛かった色の長い髪の毛は光に当たると一本一本が反射するほど綺麗で、顔だって整っている。隣に来たときにほんのり鼻をかすめる匂いは、甘いが、甘過ぎない良い匂いがした。
 京介は彼の目の奥を見つめた時、自分が見とれていたことに気付く。すぐに目をそらして、汗をふいた。

「よくわかりません」
「円堂を好きになっていないのならばいい」
「…もうコーチの言っている言葉が難しいです」
「そうか。でも気付いているんだろう、円堂に近付いてはいけないと」

 そこで京介は思わず息を飲む。なぜ、豪炎寺は京介の真意が分かるのだろうか。豪炎寺と会ったのは、たったの三回だ。まだ仲良くなっていない先輩たちよりも会っていない。それだというのに、豪炎寺の目は京介を見透かしていた。

「なんで、」
「剣城、それは賢明な判断だ、絶対にそのまま意思を変えるなよ。これは助言じゃない、忠告だ」

 忠告? なんのだ。
 豪炎寺の含みの込んだ言い方に考えてしまうが、言った当の本人はもう気にせずにベンチから立ち去ろうとしている。その背中をみて、京介はぼんやり考えた。
(コーチって不思議だ)
 いつも悩んでる時苦しい時微妙な気持ちの時など、自分が整理しきれていないときに現れて自分を支える。だが、そのお礼すら聞かずにどこかへ行ってしまうのだ。もっと深く知りたい、思うのに豪炎寺は遠い。
 考え事をしているうちに、豪炎寺はいなくなっていた。だが豪炎寺の言葉だけは忘れられない。
(やっぱり、円堂監督は、用心しなくちゃな)
 京介はなんの根拠もなかったが、豪炎寺が嘘をついているとも思えなかった。京介はかばんを持つと、できるだけ関わらないようにしようと思う。豪炎寺が言っていた好きになる云々は気にしなくても平気だろう。京介は兄以外には、特別な感情はあまり生まれないからだ。だから、円堂になつくこともないと思う。
 そうして京介は新しい心構えで帰るために自転車をこぎながら校門をすり抜けた。そう、関わらなければいいのだ、彼と。そう考えたとき、視界の端に見えた者に思わずブレーキを掛けてしまう。止まってから、後悔した。関わらない、と今思っていたはずなのに、つい反射でそちらを見てしまったのだ。

「あれ、剣城じゃないか。どうした、みんなとは帰らないのか?」
「ぁ、ああ、はい」
「ふーん。じゃあ一緒に帰ろう。タイミングもずれたし、誰かと鉢合わせになることもないからな。だめか?」

 人の目を気にする京介に合わせて、円堂は気を使いながら提案してくる。いつもの調子で強く一緒に帰ろう、と言われたならばこちらも強く断れたが、円堂には似合わずわざわざこちらの意見を聞く方法にはどうも言い返せなかった。大丈夫です、と微笑みながら、京介は自転車を降りると円堂の隣を歩く。もう夕日も沈んで、街灯が並ぶ二人の影を作った。
 そうして上機嫌の円堂の隣で京介は一種の罪悪感というものに見舞われている。豪炎寺がわざわざ忠告、というものをしてくれたのに円堂と居るとその言葉を無下にしているようで気が気でなかった。だが、円堂の純粋な笑顔を見ているとここでさようならと逃げることはできない。京介は悩みながら歩いていると、円堂がポケットに手をいれながらにこりと笑った。

「な、歩くのめんどくさくないか。」

 え、と言ったときにはもう自転車を取られていて、円堂はいたずらっ子のような笑みを浮かべる。すると自転車に跨がり、むりやり京介を荷台に乗せた。そうして、京介の腕を自分の腰に巻き付ける。

「えっ、ちょっ」
「しゅっぱつしんこーう」
「うぁっ」

 まるで電車ごっこをする幼稚園児のように可愛らしい言葉を言いながら円堂はペダルをこいだ。力強く漕がれたもので、京介の顔は円堂の背中に埋まる。鼻をぶつけて手で擦ろうとすれば、円堂は京介の手を固定しながら言った。

「危ないからしっかりつかまれよー」

 その危ないことをさせているのは誰だ。
 問いただしたかったが確かに自転車をひいて歩くのは部活後の京介からしてみれば体に負担が掛かるので出来ればしたくはない。なのでこのアイディアはいいとは思うが、正しいことを教えるはずの先生が二人乗りなんていう罰金ものを生徒としていいのかと思った。きっとそう言えば円堂は秘密、と言いながら困った顔をするのだろうと思えば京介は笑えてきた。
 坂に差し掛かるところで京介は自転車から降りて一緒に自転車を押す。坂から見える景色がいつもよりゆっくり流れていくのを見ながら、なぜか視界が滲んだ。
(兄さん、今何してるかな)
 いつも側に居た兄は、一人で強く暮らしている。それに比べて自分はしたいサッカーもなにかと気をつかってのびのびと暮らせていなかった。どれもこれも自分が弱いせいだ。
 センチメンタルな気分になりながらも、坂を上りきってまた後ろに乗ろうとすると円堂が上着を脱ぐ。暑いのかと思えば、その上着を京介が乗る荷台に掛けた。京介が円堂を見ると、円堂は申し訳なさそうに言う。

「後ろ、尻痛いだろ。これでカバー出来るといいけど」

 よし行くぞ。
 言い終わると円堂はまたペダルを踏んだ。円堂の言う通り、ガタガタと揺れる自転車の荷台に座るのは尻が痛い。だが、気になるほどではなかった、いや前が頑張ってこいでいるので、痛いと文句はいいたくなかったのだ。
 先ほどより負担の減った荷台の座り心地は最高である。京介は円堂の腰に回す腕に力を入れながら、彼の背中を見た。

(ああ、どうしよう)

 頭に主張されている豪炎寺の言葉が、円堂への熱い想いで掻き消されそうになるのを必死で耐える。自転車が進む度頬を切る風が、京介はどうも自分を責めているようにしか感じなかった。



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