「兄者、此処の惣領はどんな方なのだ?」
「ああ、うん、とても美麗な女人さ」
俺がこの本丸に辿り着いた時、既に兄者が俺を待っていた。
出陣部隊と共に本丸へとやってきた俺は、無事兄者と合流を果たすことが出来た。兄者は暫く前から此処へ居た様で、出迎えついでに本丸内を案内してくれた。生活の拠点となる二の丸を回ると、兄者はひとつ、領内を奥へ奥へと続く長廊下を歩き始めた。長廊下は何故だか霧が立ち込めており、それは先へ進むほど濃くなっていった。気温も徐々に低くなっている。前を歩く兄者へ、この先は何が、と問う。すると兄者が答えるより先に、前方に大きな門が現れた。その麓にはひとつ影があった。
彼は明石国之。兄者の声に、麓に座り込む彼はゆらりと顔を上げた。兄者は俺のことを彼に紹介した(弟の肘丸だよ)(膝丸だ兄者)、すると兄者は、この先に行ってもいいだろうかと彼に訪ねた。彼は首を横に振り、やめておいた方がええんとちゃいます、そう言って薄く笑った。
「あのなあ、門番放ってるだけで何や言われたってしゃーないですのに」
「ううん、でも折角だし、肩丸も気になるだろうから」
「はは、まー、見過ごせば、自分もどうなるかわかりゃしませんので」
再び兄者に名前を間違えられている。それを訂正に入れないほどの威圧を両者から感じた。この先に進むというのがどんなに深い意味を持つのかということ、此処へ来たばかりの俺は知る由も無かった。そして、何故か彼はその手に持つ刀身を抜き、兄者へと突きつけたのだ。驚く間もなく、帯刀していた兄者も柄に手を掛けた。面倒事はやめて欲しいもんですなぁ。明石国之は溜め息をつき、兄者に関しては、僕は楽しいけどな、等と言っている。どうしたものかと、俺は息を呑んだ。
「こら、何を騒いでいるんだい」
すると、閉ざされていた門が開き、開いた門の奥から声がする。視線を向ければそこには煌びやかな装飾を纏った女人が微笑みを湛えていた。その後ろには刀剣男士が控えている。ああ、これが主、我等の惣領かと悟る。彼女を見つめ、どうしても惚けてしまったのだった。
主が見に行くと言って聞かなくてね。そう呟いたのは眼帯を付けた長身の刀剣男士、やれやれと肩を竦めていた。明石国之は刀を納め、おー怖、と呟いて門の柱へ背を預ける。
「言っときますが、自分は止めましたから、ええ」
「明石、君がそこまでの思いでいてくれたとはね。嬉しいよ」
「…冗談きっついで、主はん」
「ふふ、…さて。また来ていたのかい、髭切」
「やあやあ、主、久しいねぇ。君に可愛い弟を会わせたくってさ」
「おや…そうかい、どうやら君にしてやられたようだ」
彼女の視線が俺を貫く。膝丸という、と短く挨拶をすれば彼女は会釈をしてみせた。そうして、兄者の思惑通り短いながらも俺と主は無事対面を果たし、彼女は踵を返しその場を去っていったのだった。
挨拶が遅れてすまない。そう言って残された眼帯の刀剣男士は俺に笑顔を向け言った。僕は燭台切光忠、主の代弁者として刀剣男士を統率しているよ…と。この本丸では平素より、主の許可無く主への謁見は許されず、燭台切光忠の指示は主の指示であるとして従うことが義務付けられているようだった。主はこの門より先には出てこないのだと。
「髭切さん。貴方には少し精鋭部隊を外れてもらうことになりそうだ」
「そら、言わんこっちゃない」
「たまにはいいよねぇ、そういうのも」
「処遇は追って伝えるよ、今日の門番はもういいから、部屋に戻って待機してくれるかな」
笑顔の燭台切光忠は、さぁ、と俺達を促し、大人しく長廊下を戻ることになった。戻れば戻るほどに、霧が晴れ、温かな日差しを感じた。
何故こんなにも大きな事になるのか、俺には理解しがたいことであった。この本丸では常識の範疇かもしれない。しかし己が為に、兄が罰を与えられた。これは度し難いものだった。心の内に未だ理解できない憤りを感じていると、兄者は実に機嫌が良い様子であることに気がついた。
「お前にはどうしても会っておいて欲しかったのさ」
「…、主にか?」
「ああ、…直ぐにお前にも分かってもらえる」
兄者は言った、己の心には鬼が巣食っているのだと。
「膝丸」
はっ、と意識を浮上させる。目の前に漆黒の瞳。彼女が俺の顔をまじまじと覗き込んでいた。反射的に後ろへ後ずさると、彼女は無邪気に笑っていた。
「物思いに耽っていたいたようだね」
「…意地が悪いぞ、主」
口を噤むと、彼女が俺へと手を伸ばし、その食指で俺の唇をつついた。煽られているのか。俺は眉を顰め、彼女の柔らかな指先に、噛み付いた。肉を僅かに食い破り、滲む血を舌先で舐め上げる。俺の付けた傷が鮮やかに、残る。私の躾がなっていなかったのかな、彼女はそう小さく呟いた。
「どうだい、最近は?」
「異常はない」
「ふふ、そうだろう」
お前を通して、見えているのだから。嗚呼、そうだとも。彼女に見えないものなど無い。うっとりと瞳を細めた彼女は、その後、傷の付いた指先で俺の瞼へと触れた。ほんの僅か、力が込められる。眼球に触れられているような、感覚。
「お前は私の目だ」
「承知している。」
「存分に励んでくれ」
「言われずとも。」
欲を言えば、他の者と同じように、彼女だけを見つめていたいものだ。しかしそれでは己の役目を果たすことは出来ない。もどかしいことだ。己を嘲笑する。
思えば初めてこの本丸へ来た日、俺が初めて彼女に見えた日、よもやこのようなことになるとは想像もしなかった。こうして彼女に触れ、彼女に触れられる位置に、俺がいる。どうして兄者ではなく俺なのかは、未だに解らない。だが聞くことはしない。ただ、手放したくないからだ。
俺の心にも、鬼が巣食っている。
そしてそれはいつの日か、彼女を、
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