苦しい。呼吸が止まない。逸る鼓動を押さえ付けるのは私の掌、早く、大人しくして欲しい。しかし私の望んだ通り、彼は目の前に現れてしまったのだ。これでは落ちつけという方が無理だ。溶けた視界に映る貴方の姿。


「…ナマエ」
「十代、ふふ」


やっぱり、思った通り。彼は私がピンチに陥れば、いつもどんな時でも駆け付けてくれるのだ。十代は私のヒーロー。誰にだってそう呼ばれるまさにヒーローを体現しているような貴方。もういつからかずっと、私の前では彼は酷く悲しい瞳をしているのだけれど、私は見ないふりをしていた。そうしていれば彼は私の前に現れるのだから。抑えきれない笑みが顔に浮かび、笑い声が零れている。私の唇からだ。


「…プロ、辞めたんだってな」
「うん、まぁ、そうね」
「どうして。他にやりたいことでも」
「そんなのないよ。十代が居なきゃ、私何にも出来やしないじゃない。知ってるでしょ」
「ナマエ、」
「ねぇ十代、私貴方がいれば何でもいいの。なのにどうしていつも居なくなってしまうの?ふふ、でもそれは些末な問題ね、生きてさえいれば、貴方はこうしてまた私に会いに来てくれる」
「…ナマエ」
「貴方とずっと時を過ごしていたい、それだけ。私はね十代、貴方の瞳がどんな色をしていたって構わない。私を映してくれるなら」
「……ごめんな。」


十代は瞳を細め、その眼光が鋭く私を突き刺す。その視線に思わず私の体幹がぐらついた。彼へ向けて両腕を広げてみせれば、重い足取りで私へと寄り、私をきつく抱き締めてくれるのだ。十代、少し会わないうちにまた背が伸びた気がする。私の肩口に顔を埋め、そのまま唇を滑らせる、それがいつもの彼の癖。手に握っていたナイフが、思いの外軽快な音を立てて床に落ちた。


「俺は何処だって行くし、何処だって行かなきゃならない。だから、お前に呪いをかけておいた。祈りとか、願いとか、綺麗な言葉を使う気は無い。正真正銘、呪いさ。」
「それは、どんな?」
「俺が居ないと何も出来なくなる呪い。アカデミアに居る時からずっと、…ずっとそうなるよう仕向けて来たんだ。だから、ナマエが倒れそうなときは支えてきたし、逆にここぞって時には姿を消した」
「…ふふ、ずるいねぇ。それ。」


私の首筋に、十代が噛み付いた。ぎ。嫌な音が耳に届く。皮膚を食い破るのではないかというほどに歯を立てて、いや食い破っているのかもしれないけれど。…そんな事しなくても、もうこの皮膚の下は全て貴方に食い尽くされているのに。そう呟くと、名残惜しそうに彼の歯が離れていった。


「ごめんな。…」
「寂しがり屋さんだね、十代。私以上に」
「…そうさ。誰かの記憶に残る為には、お前がちょうど良かったんだ。俺は忘れられたくなかった、だからお前の記憶に住んだ。ナマエが俺ナシじゃ何も出来ないのは、俺がそう教え込んだからだぜ」
「私、知らないうちに貴方の罠にかかってたんだ。でも良かった、ちゃんと貴方の思い通りに動いていたようね」
「…お前にそう言わせてるのは俺だ」
「だからいつも悲しい顔をしていたの?私をこんな風に仕立ててしまったこと、一丁前に罪悪感に塗れたって…あはは、ばっかみたい」
「ばかって…お前なぁ」
「だって、こんな可笑しい事ってないよ。壊れた私を見て、まさか十代のほうが耐え切れなくなるなんてね。」
「俺がそんなに甲斐性無しに見えるか?」
「勿論」
「っはは…ひっでぇ奴。」


十代は眉を下げ、顔をくしゃりとさせて笑った。


「その代わり、お前がお前を失うようなことがあるなら、その時は…俺がお前を倒す。」


「あの言葉の意味が、漸く分かった気がする」
「ああ、そうだろうよ」
「貴方無しでも生きられる私になってしまったら、」
「その時は、自覚させてやる、ナマエ。お前にそんな生き方はさせないってな」
「…そこまでして私の中に貴方の領域を確保しておきたい?」
「当然。」
「心配することないよ」
「まぁな」


鼻先同士を触れ合わせて、彼の瞳を覗いた。その瞳の奥には誰かが住んでいる。ねぇ、少しでも私の為の場所はあるの。そう問い掛けることはしない、私はその答えが望むものではないと分かっている。ただ彼の場合は、私の瞳を覗いたらそこには自分の為の場所しかないのだから、流石に十代といえど驚いてしまうだろうか、はたまた想定通りと言うだろうか。


「俺のいない所で勝手に死ぬなよ。」
「お前を殺すのは俺だ、…とでも言ってくれるなら考える」
「…違いねぇ」
「ずっと好き、ずっとずっと大好き。愛してるの」
「ああ、俺も」
「珍しいね、いつもならはぐらかすのに。」
「たまにはいいだろ?」
「うん、ふふ、熱いね」
「だな、溶けそうだ」


言葉を発する度に、吐息が唇を掠める。あと少しで、くっついてしまいそう。十代と抱き合っていると心の底から、彼と別の個体で良かったと思う。そうしないと、彼のこの熱は感じられない。私だけの特権、それが誰に優位性があるのやら。十代の指先が私の背筋を下へ降りて、私が唾を飲む。待って、待たない。そんな下らない言葉のやり取り、これを永遠にしていたい。


「…愛してる。」
「すごい!なんて殺し文句…ナイフなんてなくても私の命を終わらせることくらいは出来てしまいそう」
「今日は機嫌が良いんだ」
「…十代、ずっと一緒にいて。もう離れちゃイヤ。」
「分かってるよ。」
「また、調子いいことばかり言って。」
「俺がナマエに嘘ついたことあったか?」
「…ばか、いつも嘘ばっかりよ。きらい」
「…今好きって言ってただろ」
「うるさい」


これが、私の幸せの形。

(Happy Birthday 2021.8.31)




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