名前は知っているようだ。でも、友達だろうか。先生とパパは言っていた。知らない人にはついていかないように。ママやパパのことを知っていると言っても、信用してはいけないと言っていた。
「ねえ、里沙ちゃん」
男が一歩前に出る度、里沙は一歩下がった。周囲には誰もいなかった。誰もいない。どこにも二人を見ている人はいない。
「夢の国に、行きたくないかい」
「夢の国?」
こんなこと言ったら失礼かもしれないけど、と里沙は心の中で呟いた。
このおじさん、気持ち悪い。目つきも声も、言っていることも。
「そうだよ、夢の国は楽しいよ。みんなで仲良く幸せに暮らせるんだ。パパもママも待ってるよ」
「ママはいないもん」
私のママは、ずっと前に死んだんだ。里沙は男を睨みつけた。
「でも、夢の国にはママもいるよ」
「ママは死んだんです。ママにはもう会えない。会えないんだって、ユキが言ってた」
ユキ、という名前を聞いた途端、男の顔が歪んだ。「ユキ。黒峠有紀か」
何だっけ。パパが言ってたのに。知らないおじさんに声をかけられたら、どうしたらいいか言ってたのに。先生にも教えてもらったのに。何だっけ。どうしたらいいんだっけ。
「あいつは、どうもダメだ」男は舌打ちをした。
思い出した。逃げないと。逃げて、助けを呼ばないと。大声で叫ぶんだ。
里沙が駆けだそうとした瞬間、男が腕をつかんだ。とても強い力で、どれだけ引っ張っても男の手は放れない。
「放して!」
「ダメだよ里沙ちゃん。おじさんと一緒に行こう。行くんだよ、ほら」
助けて、という里沙の叫び声は誰にも届かなかった。男に口を塞がれたからだ。もっと、早く逃げれば良かったのに。どうしよう。どうしよう。男の手は冷たかった。
空き缶はコロコロ転がっていて、林はざわざわ音を立てていた。
パパ、どうしよう。
男は笑っていた。
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