29


 黒峠はおわんに入った牛乳を一気に飲み干した。満足げな彼の顔には、白い口髭がついている。
「ああ、さっきの話の続きが聞きたいんだっけね」
「口拭いた方がいいですよ」
「実はみんなの統一した行動というのはね……」
 亜沙子は鞄からティッシュを取り出し、乱暴に黒峠の口を拭いた。
「柊君! 君は話を聞きたいのかい、それとも聞きたくないのかい? 君が話を聞きたいと言うから話しているのに、邪魔をするなんて!」
「口のまわりに牛乳ついた人なんかと真面目に話が出来るはずないじゃないですか! 何で私が『口拭いた方がいいですよ』って言ってるのに無視するんです。無視しますか? 普通」
「まあ」黒峠は今更になって口を拭きだした。「そういうつまらないことで揉めるのはやめよう。で、何の話だっけ」
「みんなが統一してとっている行動のことです」
「ああ、それね」箸の入っていた紙の袋を折りながら黒峠は話し始めた。
「外部にばらさないんだよ」
「外部?」
「人々がおかしくなってしまうエリア。まだどのくらいの広さかは調査してないけど……これが内部で、その外が外部。いくらエリア内に入ってしまうとおかしくなるからといって、みんながこの状況に気づかないなんておかしいと思わないかい?」
 確かにおかしい。新聞でもテレビでも、それらしい報道は一つも見かけなかった。これほどたくさんの人々がおかしくなっているというのに、どうして世間では騒ぎにならないのだろう。
「でもそのエリア、でしたっけ? エリアの中に入るとみんな変になってしまうんですよね。そして、出たら戻る。これならやっぱりみんなが気づかなくて当然なんじゃないですか?」
「冷や飯君」
「柊です」
「この通信技術の発達した現代社会ではね、その場所に行かなくてもそこが今どういう状況なのか知ることが出来るんだよ。電話とかメールとか、色々あるでしょ」
 なるほど。亜沙子は納得した。そういえば、父が会社に出勤していないのは問題になっていないのだろうか。父の会社はエリア外のはずだ。例えば無断欠勤している父を不審に思い、上司や同僚が電話をかけてきたとしたら? あの父の言動なら、会話をすれば誰だっておかしいと思うだろう。
「普通なら、みんなこの異常事態にとっくに気づいているはずなんだ」
 あんたはこの状況を本当に異常だと思っているのか、と言いたいところだったが、話の腰を折るとまたややこしいことになるので我慢した。



[*前] | [次#]
- 29/94 -
しおりを挟む

[戻る]


×
nanoへのご支援
- ナノ -