触らぬ神に祟りなし



「イヅル、これ間違ってんだけど」
「はい、すみません!」
「後、これすぐに十一番隊の判子もらってこい、十分以内」
「わかりました!」



朝からこんな調子。
今日の夜さんはすごく機嫌が悪いです。
それはもう恐ろしいほどに。
こんな時、一番に被害を受けるのは副官の僕で。
筆を使わない夜さんが現世のボールペンでカタカタと音を立てながら机を突いているこの音は、心臓に悪いです。



「あ、弓親さん!」
「吉良君か。どうしたんだい?いつもに増して顔が青白いよ」
「これ、お願いします!すぐに!」



夜さんから渡された書類を手に駆け込んだ十一番隊。
運よく弓親さんが居て、不思議そうな顔で持ってきた書類に目を通して判を押す。
隊長じゃないと駄目な書類なんだけど、どうやらそんなことは十一番隊には関係ないらしい。



「早く戻らないと夜さんの機嫌が余計に悪くなるんですよ……」
「夜さんの?」



指定された十分以内まで後五分。
手短に今日の夜さんの様子を話すと、弓親さんは噴き出した。



「原因知ってるんですか?」
「これは僕の予想だけどね、きっと拗ねてるんだよ」
「え?」



弓親さんは笑いを堪えながら予想される理由を話してくれた。
まさかそんなことで機嫌を悪くするはずがないと思いつつも、弓親さんのアドバイス通りに三番隊に帰る前に寄り道。
十分は少し過ぎてしまったけれど、これで夜さんの機嫌が直るならまあいいか。



「遅い」
「すみません」
「ったく、このくそ忙しいのに何やってんだか」



いつもに増して口の悪い夜さんは迫力十分で。
これでもし弓親さんの予想が外れてたらと思うと、胃の辺りがキリキリと痛んだ。



「夜さん、あの……」
「何だよ、言いたいことがあんならはっきり言え」



寄り道して買ってきたものを夜さんの机の上に置く。
眉間に皺を寄せてそれを見つめる夜さんの姿がなんだか微笑ましくて、思わず頬が緩んだ。



「イヅル、これは何の真似だ?」
「えっと……一日遅れましたけど、ばれんたいんでーというやつです」



無言で包みを手に取ると、ビリっという音を立てて包み紙を剥いだ。
そして、中に入っていたチョコレートを一つ摘んで口に入れる。



「……美味い、ありがとう」



少し目を逸らしながらばつが悪そうに呟く夜さんは、もうさっきまでの彼女ではなくて。
弓親さんの予想は当たっていたんだとほっと胸を撫で下ろした。



「イヅルも食べなよ」
「ありがとうございます」



差しだされたチョコレートを口に入れれば、甘ったるい香りが口いっぱいに広がった。
二つ目を口に入れる夜さんに、疑問に思っていたことを聞いてみた。



「夜さん、ばれんたいんでーとは女性が男性にチョコレートをあげる日なのでは?」
「現世ではね。でも、尸魂界では逆だって京楽さんに聞いたんだけど」
「……それ、騙されてますよ」



パキッと夜さんの口の中のチョコレートが割れる音がした。
余計なことを言ってしまったと思った時にはもう遅くて、気づけば夜さんは目の前から消えていた。



「京楽隊長、すみません……」



今頃夜さんの怒りにおびえているであろう京楽隊長に心の中で謝罪しつつ、あと一つ残っていたチョコレートを口に入れた。
ばれんたいんでーにチョコレートを貰えなくて拗ねるなんて、まるで市丸隊長みたいだななんて思いながら、口に残る甘さの余韻に切なさを感じた。



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