名家と名高いロビン家の、御曹司のマナー教師として自分が雇われて早数カ月。十に満たない年齢を全く感じさせないような、慇懃な挨拶をされて戸惑った初日も、いまだに鮮明に思い出せる。
しかし、授業を重ねていくうちに、振る舞いこそ大人びてはいるが、やはり彼も年相応の子どもらしいということがわかってきた。他愛もない会話に喜び、わずかな休み時間には遊びをせがむ。時には我儘も言った。
少年の母親曰く、彼は私以外にも沢山の家庭教師(勉学から格闘技まで、ありとあらゆる)がついているらしいが、これほどまでに懐いたのは私が初めてらしかった。他の勉強をしている時は、文句ひとつ言わず黙々とやっているらしい。
それを聞いた時には、「舐められているのではないか」と己の教師としての技能に自信を失いかけたが、そういうわけでもないらしい。
「ライカが来る日はね、ケビンったら朝から本当に嬉しそうなのよ。いつもより早起きだし、時計とにらめっこし通し。反対に、帰る時はすごく寂しそうなの。気づいてないでしょうけど、貴女の姿が見えなくなるまでずっと窓から見送ってるのよ、あの子」
ケビンには内緒ね、と付け加えると、少年の母はいたずらっ子の様な笑顔を浮かべた。
それを聞いた日、私は屋敷を後にする際、初めて後ろを振り返ってみた。上の階の一室、少年の部屋の窓から、部屋の主が仮面をかぶった顔をひょっこりとのぞかせているのが見えた。
手を振ると、一瞬隠れようとする素振りを見せたものの、やめたらしく手を振りかえしてきた。小さな両手で、何度も何度も。
その日を境に、私は彼ができるだけ子どもらしく振舞えられるように努めた。毎日毎日、遊ぶ時間も十分に取れずに勉学と肉体の鍛錬に勤しんでいる彼が、自分と過ごしている間は年相応の顔をして、羽を伸ばすことができるようにと思った。
そう思った時点でマナー講師としては失格なのかもしれないが、もともと家族間でも厳しいしつけを叩き込まれていたらしい彼に、私が教えられるようなことは、授業開始数日後にはほとんどなくなっていた。初日から生粋のイギリス紳士顔負けの挨拶ができただけはある。
時には外に出て、庭で遊んだりもした。王朝と称されるだけあって手入れが施されたロビン家の庭は、常に木々と季節の花々で満たされていた。ただ遊んでいるだけでは申し訳ないと思い、その一つ一つの名前や花言葉を少年に教えつつ他愛もない時間を過ごした。
「これは知ってる」といって少年が摘んで見せてきたのは、やわらかな子猫の爪が寄り集まったような、かわいらしい白い花。
「シロツメクサだね」
「クローバーの花だろ」
「そういう名前もあるの」
少年は納得したように鼻を鳴らした。
「四つ葉のクローバーは、幸せの象徴なんだって」
「……知ってる。でもなかなか見つからないんだろ」
「…ねえ、ケビン。四つ葉のクローバーがどうしてできるか知ってる?」
少年は黙ったままだ。
「四つ葉のクローバーはね、人がよく通るような場所で見つかるの。なぜなら、踏みつけられたときにできた傷がきっかけで葉ができるから」
「………」
「踏まれたり、轢かれたり…―――どんな辛い目にあっても負けないで、最後には四つ葉になって、皆の称賛を浴びる」
なんだかケビンみたいだね、と言い笑うと、少年はそっぽを向いた。気分を害したのか、照れ隠しなのかはマスクのせいでよくわからなかったが、家に戻る際に手を差し伸べると握ってきたので怒ってはいないようだった。
――――そんな日々もあっという間に過ぎ、私の契約期間は終わりを迎えた。
「仲の良かった先生と過ごせる最後の日だから」と、いつもは厳しいと聞いている少年の父親直々にお許しを貰ったらしく、最終日は勉強もせずほとんどお茶と雑談で過ごした。しかし、少年は受け答えもろくにせず、紅茶もケーキもほとんど口にしなかった。耳は動いていることを祈りながら、私はいつまでもいつまでも、辛抱強く話しかけた。
そんな努力もむなしく、少年が黙りこくったままとうとう終わりの時間が訪れた。少年の母親と、今回初めて会ったに等しい父親にお礼と謝罪の言葉をかけられながら、私は玄関に向かう。いつも荷物をもって後を着いてきてくれる少年は、見送りにもきてくれなかった。
靴を履き、メイドが開けてくれた扉から外に出る。目の前に移る庭の草花は、初めて少年と会った時と同じように、春の甘い匂いがした。この風景も、今日が見納めだ。
名残惜しく思いながら、荷物を持ち直して外に続く小道を歩く。最後に、いつものように後ろを振り返って少年の部屋を見たが、そこにも姿は見えない。
あきらめて、豪奢な門をくぐり、ロビン家を後にした。赤煉瓦で舗装された道に、自分の履いている靴の底が当たる音と、車道を走る車の立てる音。
それに混じって、それは聞こえた。
「ライカ先生!」
はっとして振り返ると、少年が息を切らしてこちらにむかって走ってくる。
慌てて引き返すと、少年は私に向かって手を突き出した。
「先生、これあげる」
手渡されたのはクローバーだった。ほんの少ししおれてはいるものの、充分な瑞々しさが四つの葉に宿っている。分刻みのスケジュールで生活をしている彼に、よく探す時間があったものだ。
「いいの?四つ葉なのに」
「だからもらってよ。ライカ先生、ぼくに似てるって言ってたじゃない」
だからこれ見てぼくのこと思い出して、と少年は私の両手に四つ葉を押し付けてきた。
「……ありがとう。私、絶対ケビンのこと忘れないからね」
「ほんとに?絶対わすれない?」
「うん、絶対」
目線を合わせてしゃがみこみ、少年の頭をなでると、仮面の奥にのぞく目が笑顔になったのがわかった。
――あれから何年がたっただろうか。
当時の年齢から換算すると、少年はすでに成人間近の男になっているだろうか。辛い訓練漬けの日々を乗り越え、傷つき思い悩みながらも、彼は成長することができただろうか。
読みかけの本に挟んだ、四つ葉のクローバーを押し花にした栞を眺めながら、私は未だ色褪せないあの日々に、今日も思いを巡らすのであった。
(初出:2012.02.29、改訂:2019.05.04)
旧サイトの記念すべき一代目拍手文でした。お褒めの言葉を沢山頂き、ありがたいと感じると同時にケビン人気を実感した覚えがあります。