プロローグ

1
 人間とはかけ離れた類い稀なる肉体と精神力、そして格闘能力を持つ闘い人の事を、人々は、敬意と畏怖の念を込め、"超人"と呼んだ。

 その中でも、人類征服をもくろむ種族は悪行超人と呼ばれた。

 一方、彼らに対抗すべく立ちあがった超人達もいる。彼らは正義超人と呼ばれた。事に、超人オリンピックV2チャンピオンである、キン肉星第58代大王キン肉マンを筆頭とし、人類を救うべく活躍した者達は、伝説超人――『レジェンド』と称される。

 彼らの力により、地球に平和と静寂が取り戻されてから、28年の歳月が経過した――


***


「さて……いよいよ明日だな」
「はい」
「私の稽古よりも、遙かに辛く苦しい事が待っているだろうが、折れずに大いに励むのだよ」
「はい」

 向かいの席に坐している男の言葉の一つ一つに、はきはきと受け答えをする者の容貌は、異形の様を為していた。
 全体を透き通るような銀色の毛皮に覆われた顔には、長い口吻と天に向いた耳、そして鋭い光の宿った双眸が備わっている。その両目は、まっすぐに男を見据えていた。男の表情の一瞬一瞬を観察するように、顔の筋肉のわずかな動きすら見逃さないように、銀狼は瞬きすら忘れているようだった。

「ツィガン、マスクの具合はどうだ?」
「すっかり慣れました。父さんと同じ狼の名を受け継ぐ事ができて、とても光栄に思います」
「ハハハ、それは良かった!私も念願叶ったりといった心持ちだぞ。いつか自分の息子がリングに立つときは、私のマスクと対になる銀の……」
「あなた、お話もいいですが、お食事が冷めてしまいますよ」
「おお、そうだったな。――ツィガンも当分は母さんの料理を口にできないからな、今夜はよく味わって食べなさい」
「はい」
「では、我が息子の門出を祈って……ザ・ヴァシュ・ズダローヴュ(乾杯)」

 乾杯の音頭と同時に、3つのグラスが合わさる音が食卓小気味よく響いた。
 狼はマスクを被った状態で、器用に一口を飲むと、グラスをテーブルの上に置く。食卓にはロシアの伝統料理がほこほこと湯気をたてて並んでいる。
 狼はボルシチで満たされた皿を引き寄せ、スープ用の丸いスプーンを取った。その様子を、向かいの席の男は破顔しながら見つめている。視線を肌で感じ取りながら、狼は心中ほっと胸をなでおろし、一匙分のボルシチを口に運んだ。


***


 夕食とひとしきりの団欒をした後、狼は床に着くために二階の自室へと向かった。食事の間中気を張っていたせいで、すっかり目が乾いていた。一刻も早く休みたい。
 加えて明日から始まるのは、地球をはるか離れてゆく宇宙旅行なのだ。目的地はアンドロメダ星雲、レッスル星にある超人格闘術学校。通称ヘラクレス・ファクトリー。ギリシア神話に登場する怪力男の名にあやかってつけられた、まさに超人教育の場に相応しい校名である。
 慣れない宇宙の旅の後は鍛錬の漬けの日々が始まる事を考えると、できるだけ体調を万全にしておくべきであろう。
 部屋に入り電気を付ける。家具は木製のデスクに小さなソファ、ベッドだけというシンプルなものだ。若き狼はベッドの上に置かれた皮製のトランクを開け、荷物を確認し始めた。運動しやすいジャージと少しの私服、座学で使うであろう筆記用具と、暇つぶしのためのペーパーブックが2、3冊。その他日用品と、数ヶ月間の訓練に対応できるだけの物が詰まっている。

 一つ一つを丹念に確認し終えると、狼は少し思案してから屈み、ベッドの下に備え付けられたクローゼットを開けた。中には肌着とスポーツ用コルセット、テープが数巻……そして、この部屋と部屋の主にはまるで似合わないが、古ぼけた犬のぬいぐるみが入っている。
 狼はテープを幾つか掴むと、日用品の入ったポーチの中にしまい始めた。同様にコルセットも畳み、私服の中に念入りに挟み込む。

 最後に、狼はぬいぐるみを手に取った。それをじっと見つめた後、片方の手でその頭部を撫でる。その触れ方は、誰の目から見ても愛玩のために施される、慈しみに溢れたものである。
 肉食獣の化身が、ふわふわとした布製の玩具を愛でるその様子は異様で、第三者が見ていたら滑稽にすら思えるかもしれない。
 狼はしばらくそうしていたが、やがて決心したかの様に手を止め、ぬいぐるみを残りのスペースに丁寧に詰め込んだ。運んだ際に中身が散乱しないためのストッパーを占めると、トランクの蓋を閉め、鍵をかけた。



「 "ライカ" 」



不意にかけられた言葉に、狼は弾けるように顔を上げた。

「入ってもいい?」
 数秒黙りこくった後、狼は返事を返した。ドアを開けて入ってきたのは先程料理を食べる事を促した女性である。

「ライカ」
「……母さん、僕の名前は "ツィガン"です――」
「…そうね。でもそれは、お父さんと世間にとっては。私にとっては、あなたは昔から『娘』のライカであることに、変わりはないの」
「………」

 母親は、銀色の毛を撫でながらマスクの縁に手をかけた。狼の耳がぴくりと動いたが、抵抗せずに為すがままの状態になる。

 獣の面の下から現れた顔は、人間の――まだ成長期を迎えている途中くらいの、それであった。視界の邪魔にならないようにするためか、前髪は細身のカチューシャバンドで後ろに流されている。

「………」
「顔をよく見せて」
「…母さん、僕……私……」

 声色が、少年の声から、幾分かトーンの高いものに変わった。それは明らかに、女性の、少女の声音であった。

 ライカと呼ばれた少女は、母に何か話そうとしたようだが、開かれた口から言葉が発せらせる事はなかった。彼女の目線の先、母の顔から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ出していたのだ。

「ごめんね……ごめんなさい、ライカ。同じ年頃の女の子のような生活をさせてあげられなくて。辛い思いばかりさせて。…あんな事さえ、なければ……」
「母さん」

 声を押し殺して涙を流す母親の肩を優しく掴むと、首を横に振った。

「自分が選択した事だもの。後悔なんかしてない」
「ライカ……」
「私はお父さんとお母さんの子どもとして生まれた事、悔んでなんかないよ」

 母親は堰を切ったように声をあげて泣き始めた。ライカは宥めるように母の体を抱きしめ、背中をさすり始める。

「いってきます、母さん。父さんの事、宜しく」

 安心させるためにかけたであろう言葉は、どことなく震えているようにも聞こえた。

(改訂:2019.04.15)
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