鉢屋くんが口をきいてくれない。わたしがハワイから帰ったその次の日から彼はわたしと口をきいてくれなくなってしまった。お土産の変てこなキーホルダーをクラスの皆に配ったあと、鉢屋くんにだけ特別に買ってきたうすいきれいな水色の、アンティークのカップをあげたのに。すごく安かったから偽物かもしれないけれど。わたしとお揃いなんだよって言いながら渡したお土産を受け取った鉢屋くんはすごく変な顔をしていた。なんて言ったらいいかわからないけれど、眉毛は困ったように下がっているのに眉間にはしわが寄っていて、くちびるはうっすらと開かれて何か言いたそうにしていた。何だか心をどこに置けばいいかわからないって感じの顔。もしかしたらあれは鉢屋くんにとっての泣きそうな顔だったのかも。やっと聞き取れるくらいの声でありがとって言ってくれて、それから一週間。鉢屋くんはわたしと口をきいてくれない。よく考えなくてもわたしのせいなんだろうなと思う。意地悪がすぎたのだ。結論を急ぎすぎてしまったのかも。もしかしたら傷つけてしまった?それはなにより嫌だ。わたしは彼を傷つけたくなんてないのだ。でも、あれから屋上に行って鉢屋くんと会うこともなくなったし、話しかけようとしても絶妙なタイミングでするすると逃げて行ってしまう。たまに遠くからじっとわたしを見ていることもあるんだけれど。好きな人が近くにいるのに話せないっていうのがこんなにもつらいなんて初めて知った。だから鉢屋くんが不破くんや竹谷くんと話していたり、授業中にあてられたりして喋る声がとても貴重なものになった。録音して持っておきたいくらい。口をきいてくれないのならごめんなさいの手紙でも書いてみようか、そう不破くんに相談してみたけれど、大丈夫、三郎は怒ってるわけじゃないんだよって言われただけだった。こういうのを膠着状態っていうのかも。

「鉢屋、答案用紙にはちゃんと名前を書け」
「あ、はい」
「俺は担任だからわかるがそうじゃなかったらお前の答案用紙だとわからんだろう」

木下先生が小テストを返却しながら鉢屋くんに小言を言っている。そうそう、自分のものには名前を書かないとね。鉢屋くんは上履きにも名前を書いていない。かっこ悪いから嫌なんだって前に言っていた。あんまり長いこと鉢屋くんと話せないので脳みその中で木下先生と鉢屋くんの会話にまざってみたけれどむなしいことこの上なかった。どうするかなぁ。でもわたしからこれ以上攻めていったら本当に鉢屋くんに引かれてしまいそう。わたし、本物の鯨をみたんだよ鉢屋くん。ハワイのきれいな海で、夢にまでみた鯨。いちばんに鉢屋くんに話そうと思っていたからまだ誰にも言ってないんだよ。ああ、はやく仲直りしたいなぁ。悲しい。教壇の前から席へ戻る鉢屋くんと目があったけれど、目をそらされるのがこわくてわたしから先に視線を外してしまった。知らなかった。わたしって意外と打たれ弱い。
やっぱり鉢屋くんってすごいと思う。鉢屋くんのそばにいるだけで自分の知らなかったところがどんどん出てくる。嬉しいのも悲しいのもよくわからないのも、全部鉢屋くんがいるから生まれてくる感情だ。小学校に上がったばかりの頃、担任だった先生に感情のうすい子だって言われたことがある。わたしの両親はその言葉にとても怒っていたけれど、わたしには何となくその先生の言いたかったことがわかる気がする。わたしは多分他の人よりも物事が頭の中や心に届くのが遅いのだ。つまり、鈍い。
だから鉢屋くんに出会って話すようになって、どんどん彼のことが好きになって、足下がふわふわしたり幸せな気持ちでくらくらしたりするのは本当にすごいことだから、わたしはわたしの為にも彼から離れたくない。これってとんでもないわがままだと思う。でも好きなんだもん。どうしようもない。


なんだか寒くて机に伏せていたら眠ってしまったようで、起きた時には教室には誰もいなかった。いくら起こしても起きなかったから先に帰るね、という友達からの書き置きがかわいいマスキングテープで机の端に貼ってあった。前にこうやって眠ってしまったときは鉢屋くんがそばにいてくれたのに今は誰もいない。重たい荷物を前かごに入れて、のろのろと自転車で校門の外へ走り出たところでしゃがみこんでいる鉢屋くんを見つけた。すごい怖い目つきで、どこの不良かと思った。そのわりに、コート着て手袋してマフラーして完全装備でかわいいけど。硬直しているわたしの方へ早足で近づいてきた鉢屋くんはわたしを無理矢理荷台へ座らせて自転車を走らせ始めた。これはもしや誘拐。なんて軽口もたたけないくらいにわたしは弱っていたので大人しく流れる景色を見ていた。駅前の商店街。たまに寄る本屋さん。学生のたまり場になっているファミレス。森林公園。見慣れた風景がどんどん後ろへ飛んでゆく。鉢屋くんは一生懸命にペダルを漕いでいて、そっと寄りかかった背中は温かい。こんなに鉢屋くんは温かいのだから、きっと彼はわたしに怒ったり呆れたりしていないんだと、都合の良い解釈をしてみる。だって鉢屋くんがどこに行こうとしているのだかわかってしまった。ねえ鉢屋くん、わたしの手紙の返事をそこでしてくれるつもりなの。わたしのこと嫌いになってない?

細いからだで海までの道を漕ぎきった鉢屋くんは頬を上気させて、わたしに手招きをして歩き始めた。いつも教室から見ていた海は深い紺色をしていて、さわったら少し硬そうで、でもハワイの海より好きだと思った。波打ち際から少し離れたところで立ち止まった鉢屋くんの隣に立ってつくづくと眺める。

「名字さん」
「なーに」
「手紙ありがとう」
「…どういたしまして」
「返事書こうと思ったんだけど。全然書けねえの。名字さんが帰ってくるまでも帰ってきてからも毎日家で書こうとしてたんだけどぜんぜんだめだったわ」
「鉢屋くんの手紙ってすごい貴重な感じする」
「思ってること全部書こうと思って、だから書き上げるまで話しかけないでおこうと思ってたんだけどさ、今日名字さんに目そらされて超びびった」
「わたしもこの一週間びびってたもん」
「ごめん」

それで、これなんだけど、と言って手袋を外した鉢屋くんの手には大きくわたしの名前が書いてあった。名字名前って。これ、油性マジックなんじゃないの。鉢屋くんてすごいバカだったのかな。

「なにこれ」
「今日木下サンが自分のもんには名前書けって言ってたから思いついた」
「でもこれわたしの名前だよ」
「だから、そういうつもりなんだけど」
「…お土産のお返し的な?」
「まあそれでもいいよ」
「鉢屋くんてティーカップと同じくらいの価値なの」
「…で、もらってくれるの、くれないの」

鉢屋くんの顔が首のあたりからじわじわと赤くなっていく。落ち始めた夕陽のせいだけじゃないと思う。じっと見ていたらマフラーに顔をうめて隠された。知らなかった。鉢屋くんて、結構。なんて言ったらいいんだろう、そうだ、乙女チック?でも嬉しい。すごく嬉しい。名前のわからない感情がごぼごぼと溢れて爆発しそう。鉢屋くんの眉毛が八の字になってる。この間の表情と同じ。きっとこれって鉢屋くんが困っちゃった時の顔なんだ。徐々にうつむいてきた彼のおでこに、背伸びして自分のおでこをくっつけた。至近距離で見た鉢屋くんの目の中に、ゆるみきった顔で笑うわたしがうつっている。わたしの目の中には困り顔の鉢屋くんがうつっているはずだ。その時唐突にわかった。この感情の正体。今ここで世界が終わってもいいってくらいの幸せ。ぱちぱち火花が散ってるみたいに全部が光って見える。ああ、どうか鉢屋くんも同じ気持ちでありますように。こらえきれずにふふふと声を出して笑ったら鉢屋くんもくしゃっとかわいい顔で笑った。初めてさわった彼の手はとても冷たかったけれど、握りしめているうちにわたしの手の温度とまじりあってどちらがどちらだか分からなくなってしまった。









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