三郎はしばらく床に手をついてうなだれていたが、よろりと立ち上がって部屋の方へとぼとぼ歩いていってしまった。

「名前のバカ…ラーメンマン…」

 謎の悪口を残して去っていった三郎の背中を、私はしばらく遠い目で見ていた。それにしてもびっくりした。まさか急に三郎があんな事をするなんて。今までずっと一緒のベッドで眠っていても何もなかったから、あまりそういう事に興味がないものだと思い込んでいた。そんな訳ないのに。こういう時に私は改めて三郎の優しさを知る。



お風呂に入って歯を磨いて自分の部屋へ向かう途中でふ、と足を止めた。
指先で首や耳、頬をそっとなぞる。さっき三郎がふれたところ。そこがわずかに熱を持っているような気がしたのだ。
三郎とふたりで暮らした春、夏、秋。秋が終わったら冬がきて、冬がきたら春がくる。そうして季節がひとまわりする頃、私たちはどうなっているのだろう。

この家で暮らしはじめるまでは知らんぷりしていたけれど、いつも私の中には泣いている子供がいた。三郎と一緒にいるとその子供の声が大きくなってきて、つらかった。
さびしい。こわい。一人はさびしい。誰かそばにいて。でも、誰にも近寄ってきてほしくない。矛盾したきもち。そして、その子供は三郎の中にもいた。私たちはお互いその子を見て見ぬふりをしたけれど、最後には私と三郎の中にいる子供は手を取り合って進むことを選んだ。


三郎の部屋の扉をそっと開けて静かにベッドのそばに歩いていくと、始めは驚いた顔をしてベッドの中にいた三郎だったが、すぐにやわらかく笑って場所をあけてくれた。私はそこに潜り込むと仰向けになって天井を見つめた。視界の端には同じようにして天井を見る三郎の横顔がうつっている。

「さぶろう」
「ん?」
「好き」
「…うん。嬉しい」
「大好き」
「俺も…初めて名前に会ったときはこんなに好きになるとは思わなかったな」
「明日、雷蔵たちに報告しなきゃね」
「そうだな。…笑われそうだな」
「でも楽しみだね。…ねぇねぇ」
「んー?」
「今日一緒に寝てもいい?」

三郎は顔だけをこちらに向けてなんだか泣きそうな顔で笑った。そしてまた天井へ向き直り、私の手を握ってくれた。私はその手の温かさに安心して目を瞑り、まだ少し遠い桜の季節へ思いを巡らせた。
ねぇ、三郎。春になったらふたりで少し遠くに出かけたいな。お弁当持って電車に乗って。原っぱのあるところに行きたい。そこでふたりで手を繋いで眠ろうよ。今みたいに。これからくる冬だって、こわくないよ。


この家はとても静かで暖かくて、大きな繭の中にいつもいるみたい。けれど私たちはいずれここを出ていくだろう。あたたかな春風がごうごうと吹く日、ふたりで手を取り合って外へ出よう。

きっとその日は、もう近い。

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