雨上がりのひんやりしたコンクリートの上をゆっくりと雲の影が過ぎていく。夕飯を食べに行った帰り道、三郎と私は夜の道をふたりで歩いていた。空では月が煌々と光り、時折吹く涼しい風があたりの木々を揺らしていた。私は少し前を歩く三郎の、ゆらゆらと空中を揺れる骨張った指を見て不思議な思いに囚われていた。もう二度とふれられないと思っていた、すごく遠くに感じていたあの日が嘘のように三郎が近くにいるのだ。もうさわってもいいんだ。嘘みたい。
 気付かれないようにそっと三郎の指に手を伸ばしたが、手がふれる寸前になって急に恥ずかしくなってきたので手を繋ぐのは諦めて隣を歩くだけにとどめた。そして三郎の横顔を見上げて私はあることを思い出した。

「ねえ三郎」
「んー?」
「ほっぺた、誰に殴られたの?」
「あー…あの…あの子」
「…そっか」

あの子、だけで誰の事だか分かった私はそれ以上の追求をしなかった。今の私には三郎がここにいるという事がいちばん大切だった。腕を伸ばしまだうっすらと赤い頬を指で軽くなぞると、三郎は肩を微かに揺らして目を伏せた。その様子があんまりきれいで、私はぱっと三郎の頬から指を離して顔をそむけ、小走りで三郎の少し先を歩いた。うつむいて自分の爪先を見ながら歩いていると急に強い風が吹き、無防備だった首筋を冷やした。少し寒い。急いで帰ろうと言うために後ろを振り向くと、三郎は表情の読み取れない顔でこちらをじっと見ていた。

「三郎?どうしたの」
「いや、何でもない。寒くなってきたから早く帰ろうか」
「うん。私も今それ言おうと思ってた」
「はは、ホントか」

急に雰囲気の変った三郎が何を考えているのかが気になったが、その疑問はほどなく解消された。家に帰り玄関の鍵を閉めた途端、私は三郎に背後から抱きしめられたのだ。突然のことに頭がついていかず、なされるがままにじっとしていると、うなじにひんやりとして柔らかい三郎の唇が押しつけられ、背筋がぞわりとするのを感じた。

「ちょっと、三郎!」
「名前、こっち向いて」

私の抗議の声を無視して三郎は首から耳、頬へと順番に唇を落としてくる。そしてそのまま私の体を自分の方へ向け、口にキスをしてこようとしたので私は思い切り三郎のお腹を押して抵抗した。すると意外にもあっさりと三郎は退き、その場にしゃがみこんでしまった。

「…ごめん、痛かった?」
「大丈夫…今日ここ雷蔵に殴られたからちょっと痛かっただけ…」
「ら、雷蔵に…」
「…ていうか…何でキスさせてくんないの…」

恨めしげな顔で見上げてくる三郎。答えに窮した私は質問に質問で返すという荒技に出た。

「それより、どうして急にキスとか、してきたの?」
「…帰り道で名前の後ろ姿見てたらムラッときたから」
「そんな当たり前みたいな顔して言わないでよ…」
「ねえ、そんな事よりなんで?嫌?俺と…」

瞳を揺らしてしょんぼりする三郎の姿に心が痛み、私は重い口を開いた。

「………私、今口がラーメンくさいから…」

その言葉を聞いた三郎はしばらくぽかんと私の顔を見ていたが、がくりと肩を落としてうつむき、ため息をついた。

- 26 -