「…俺のこと覚えてる?」

と、正真正銘その日が初対面のはずの彼は私の頬に手を添えながら言った。じっとこちらを見る彼から目をそらし、私は自身の身の危険を感じていた。これはあんまり関わらない方がいいタイプの人だ。絶対。せっかくこんなにいい天気で、こんなに公園はのどかなのに。私はあまり彼を刺激しないようにゆっくりと頬にあてられた手を外すと、自分の足下の地面のでこぼこを目で追いながら口を開いた。

「…あの、私たち、初めてお会いしましたよね?」

よし。言えた。密かな達成感を味わいながらまだ名前も知らない彼の顔をそっと見上げると、彼は色を失って立ち尽くしていた。今にも倒れそうなその様子に不安を抱いて一歩下がろうとした時、強い力で手首を掴まれ引き寄せられ、抗う間もなく抱きしめられた。あまりの力に小さく咳き込んだ私を見た周囲の人が流石におかしいと感じたのかざわざわと集まってきたその時、

「名前…」

彼は確かに私の名を呼んだ。何故だか酷く懐かしい響きを含んだその声に、思わず彼の服を掴んだ。その様子を見て、集まりかけていた人たちは、私たちの事をただの痴話喧嘩中のカップルだと判断したらしくまたあたりへ散っていった。違う。違うけど、ならどうして彼は

「私の名前知ってるの?」
「忘れるわけない。お前は名前だろう?」

もどかしそうな様子で私の名を呼ぶ彼の事が怖くなり、渾身の力を込めて彼を突き飛ばした。

「あの、多分人違いだと思います!確かに私の名前は名前ですけど、私はあなたの事を知らないです!」

一気に叫んでその場から逃げ出した。ただ紅葉を見にきただけなのに、どうしてあんな、変な人につかまってしまったんだろう!木立から落ちてくる紅葉しきった葉を踏み散らしながら必死で走った。怖い。怖い。怖い。何より彼が私の名前を呼んだその響きを懐かしく感じた自分が怖い。どうして、私は、あの人を知っている?
 ふとその時、葉を踏みしめる足音が増えたのに気がついて振り返った。彼だ。彼が私を追ってきている。きっと直に追いつかれてしまう。彼はいつだって私より足が速かったのだから。……?自分の中に浮かんだ不可解な想念に気を取られた刹那、積もりに積もった落ち葉に足を取られて私はその場に転がった。

「名前!大丈夫か?」
「こっち来ないで!警察呼びますよ!」

追いついてきた彼からどうにか逃げようと、立ち上がろうとしたが腰が抜けて立ち上がれず、私はその辺りの枝や葉っぱを手当り次第に掴んでは彼に投げつけた。必死で逃げている間に人気の無い林へ入り込んでしまった。今私を守れるのは、私しかいないのだ。
 ところが彼は私が投げる枝や葉をよけようとすらせず、目を瞑ったままその場に立っている。そして私が物を投げるのをやめるとゆっくりと目を開いてこちらを見た。

「名前…本当に覚えていないのか?」
「だから…いい加減にして下さい!」

私がそう言った途端、彼の瞳は今にも零れそうなほどの涙を湛えた。そうして目を伏せて声も出さずぽろぽろと泣き始めた。細かく震えている長い睫毛に光る水滴を、私は見た事がある気がする。とうとうその場に座り込んでしまった彼のもとへ、私はまだ言う事を聞かない膝を叱咤しながら近づいていった。何故かは分からない、行かなければいけない気がした。彼の正面に座り込んで、その涙を拭おうと手を伸ばす。ああ、私、指先まで震えてる。なのに馬鹿だな、こんな事して。一面の紅い葉の絨毯と、それをかたちづくる降り止まない紅い葉の中で、泣いている彼を見ているとどうにかなってしまいそうだった。彼は私の指先を躊躇しながら握りしめて、口元へ持っていき、掠れた声で話し始めた。

「…昨日、夢を見たんだ。あのころの夢だった」
「どんな…?」
「ぬるい水の中だった。水の中から月を見ていた。浮かぶ月は怖いくらい白くてきれいで、いつまでも見ていたかった。…でも息が苦しくなって口を開けてしまった。沢山の白い泡と一緒に水面へ顔を出すと、少し離れた所にある木の根元からこちらを見て笑っている名前がいた…」

彼の言葉に耳を傾けながら私は目眩を感じていた。知っている?私はこの人を、知っている。

「そして俺に向かって、きれい、って言ったんだ。言ったんだよ」
「…覚えてるよ」

彼が息を呑んだ。私は勝手に動く自分の口を止める術も知らず、自分の口が紡ぐ言葉をどこか他人事のように聞いていた。

「…いつまでも水面に顔を出さないから心配してた。しばらくして慌てて浮かんできたあなたの顔を見たら笑ってしまった。でも、水の中でゆらゆら揺れてる黒い髪がすごくきれいだった」

彼は、ああ、と息をついて私の両手をしっかりと握りなおした。

「じゃあ、これは覚えてる?二人で秋の野に遊びに出たとき…帰り道に見た、夕焼けに染まってたくさん咲いてた女郎花。風に揺れているのを手を繋いでずっと見ていた」
「覚えてる。覚えてるよ。女郎花が揺れているのを見てるあなたを見てた…それに気がついたあなたが照れくさそうに笑って、もう帰るぞって言って、ぜんぶが夕日に染まって、真っ赤だった。それが少し怖かった」

彼は大粒の涙を零しながらくしゃくしゃの笑顔を浮かべて私を抱きしめた。今度は私もしっかりと彼を抱きしめかえした。…どうして忘れることができたんだろう、こんなに好きなのに。あんなに好きだったのに、大切だったのに。頬にあたる風の冷たさに、いつの間にか自分も泣いていた事を知った。

「兵助…忘れててごめん」
「もういいよ…思い出してくれたから、もういい」

抱き合ったまま座り込んで泣いている私たちの上には、未だ紅い葉が散っている。その色があのときの夕焼けにそっくりだということに気がついて、私は兵助の肩に顔を埋めた。


















3800を踏んで下さったカンリさんへ贈ります!お待たせしました………………そして、あれです、このポエマー野郎!と罵ってくれて構わないですよ…。少し変態っぽい久々知くんの話を書こうとしていたはずが、最初は変質者扱いみたいな話を書いてしまった上に、周期的に私を襲うポエムの波が…結果的にこういうお話に…させたわけですね。お気に召すか分かりませんが受け取って頂けたら嬉しいです!リクエストをありがとうございました!

2010.10.07 ヨル