私の目の前には今、きれいに洗ってたたんだ久々知先輩の手ぬぐいがある。借りたものは返す。これは人として当然の事である。だがしかし私はなかなか手ぬぐいを返しにいく決心がつかなかった。昨日の今日でどんな顔をして先輩に会えばいいのかわからない。いやまあ普通の顔をして会えばいいんだろうけれど。昨日はありがとうございましたと言って、お土産のお団子と一緒に渡せばいいのだ。ささっと。…どうして手ぬぐいを返すだけでこんなに悩むのかはさすがにそういう方面に鈍い私でもわかっている。私は久々知先輩のことを好…いや、嘘です、そんなことはないです。今この気持ちを認めてしまったら恥ずかしくて先輩と話せなくなってしまう。せっかく昨日の一件で普通に話せるようになったというのに。あああ。久々知先輩は昨日のことなんて何とも思っていないんだろうな。抱きつかれたことも気にしていないに違いない。なんと言っても私と先輩は友達なのだから。そうだ。先輩は友達なんだ。そうだそうだ。うまく自分をごまかせた気になれた私は気合いを入れて立ち上がり、手ぬぐいとお団子の包みを持った。そして勢い良く部屋の戸を開けた瞬間、目の前に久々知先輩が立っていた。

「ぎゃああああああ!」
「おっ、いい反応だなあ」

久々知先輩はそう言ってにやにやとしながら部屋に入ってくる。あれ?この声は久々知先輩じゃなくて…

「…鉢屋先輩ですか?」
「ご名答!よくわかったな」

そう言って鉢屋先輩は私に背を向け、ぱぱっと手を動かした。そうしてもう一度こちらを向いた時にはもう、昨日と同じ不破雷蔵先輩の顔に戻っていた。

「ど、どうして久々知先輩の変装をしてたんですか?」
「んー?まあ、そんな気分だったからだな。ところで名字、昨日は大丈夫だったか?夕立に散々降られたそうじゃないか」
「あ、はい。久々知先輩が傘を持って迎えに来て下さったのでなんとか大丈夫でした。せっかく鉢屋先輩が忠告して下さったのにすっかり忘れてしまってました」
「まあ風邪もひいていなさそうだし無事で何よりだよ」
「ありがとうございます。あ、そうだ、鉢屋先輩に渡そうと思って昨日お団子買ってきたんです。良かったら食べてください」
「おっ、ありがとう。ちなみにその団子を買ってきたのは私だけにかい?」
「いえ、私と同室の子と、あと久々知先輩にも買ってきました」
「そうかそうか。なら安心して頂こう」
「??はい」

どことなく憂いを帯びたような顔をした鉢屋先輩を不思議に思いながらも、私もお団子を食べた。これは自分用にと買ってきたものだ。どんな時でも自分のおやつは忘れない。それが私のポリシーだ。

「時に名字」
「何でしょう」
「その手ぬぐいは兵助のじゃないか?」

鉢屋先輩は私が持っていた手ぬぐいを目ざとく発見して、ひょいっと私の手から手ぬぐいを取った。

「あ、は、はい。昨日私がずぶぬれだったので先輩が貸して下さったんです」
「そうかそうか。じゃあ私が返しておいてやろうか」
「いえ!大丈夫です!自分で直接返しますから!」

鉢屋先輩から手ぬぐいをぱっと取り返し、あわてて懐にしまっていると、鉢屋先輩は何故だかにやにやしながらこちらを見ている。

「ふ〜ん。名字って…ふ〜ん」
「な、何ですか」
「いやぁ何でもないよ。いいんじゃないかな」

何なんだこのにやにや笑いは。なんだかだいぶ昨日とは印象が違う。昨日は優しい先輩といった感じだったのに今は変な先輩だ。先輩のにやにや笑いに自分の気持ちを見透かされているような気恥ずかしい気持ちになった私は先輩を部屋から追い出した。

「ほ、ほら鉢屋先輩、お団子食べ終わったんなら出て行って下さい!」
「ひどいなあ、私は名字が風邪を引いていないか心配で見に来たのに」
「ご覧の通り大丈夫です!もう!にやにやしながらこっち見ないで下さいよ!」

にやにやくねくねしながら出て行こうとしない鉢屋先輩の背中をぐいぐい押して部屋の外まで連れて行くと、先輩は「団子もいいが今度は大福を所望したい」などと言って私の頭をなで、さっと姿を消した。なんだかからかわれたような気がする…と思いながら部屋に戻るとまだ何本か残っていたはずの私のお団子がこつ然と姿を消していて、私は膝から崩れ落ちた。あの人とんだ食わせ者だ……。結局今日は久々知先輩に手ぬぐい、返せなかったし。


- 6 -