日ごとに気温は上がり、世間は着実に春めかしくなってきている。
今頃裏山では桃の花が満開になっているはずである。
梅、桃、桜。春の花が咲く順番。
今度友人を誘ってお花見にでも行こうかと考えながら渡り廊下を歩いていると、後ろから軽快なスキップの音が聞こえてきた。
これだけいい天気だからつい浮かれてしまうのにも共感できる。一体どんな人がこの春の陽気に浮かれているのかしらと緩んだ顔で振り向こうとしたその時、
僅かではあるが殺気のようなものを感じた私はその場から反射的に飛び退こうとした。
しかし時すでに遅く、ドンという音と共に体に走る軽い衝撃。視界いっぱいに藍色が広がった。

「あー、やっと見つけたぁ」
「………!?」

首と背中をしっかり押さえられていて相手の顔が全く見えない。声を聞く限りでは敵意はなさそうだけれど知り合いでもないようだ。
見方によってはこれ、私が抱きしめられているようにも見えると思う。どういう状況なんだろう。
早く放せと身じろぎをすると、体からゆっくりと手が離れていく。
すぐに相手の顔を確認すると、目の前にいるのは、この間裏庭で泣いていたまんまるい目のかわいい男の子であった。

「あれ、この間の…」
「そう、俺!あの時はありがとう!名字名前ちゃん!」
「あ、いえ、どういたしまして…?」

どうも調子が狂ってしまう。この人はこんなに陽気な兄ちゃんだったのか。この間の涙が嘘のようにニコニコしている兄ちゃんは、こちらへ右手を伸ばしてきた。
つられておずおずと右手を差し出すとがっちりと握られてぶんぶんと上下に振られた。

「俺五年い組の尾浜勘右衛門、よろしく!」
「あぁ、どうも、よろしくお願いします…尾浜くん」
「あ、勘右衛門でいいよ。俺も名前ちゃんって呼ぶから」

何やらやたらと馴れ馴れしい人だ。確かに私は何か面白いことが起きないかなあとは思ったけれど、変な人を連れてこいとは思わなかったよ?

「あっ、名前ちゃん、ほっぺたに睫毛ついてるよ」
「え、どこどこ?」
「取ってあげるから目閉じて」

言われるままに目を閉じると、途端に頬に温かくて湿った感触がした。カッと目を開くと勘右衛門君は相変わらずにこにことしている。

「え、今、なんか…え?」
「どうしたの?」
「あの…手で取ってくれたんだよね?」
「そりゃそうでしょー」
「だよね、ごめん変な事聞いて…」
「まぁ正確に言うと、睫毛取ろうとしたら自然に下に落ちたからついでにね、ちょっとチュってしちゃった」

ついでって何だ。ついでって。この間のポロポロと涙をこぼしていた儚げな少年は何処に行ってしまったんだ。
身の危険を感じた私はすっと尾浜勘右衛門に近づくとその右腕をつかみ、思い切り背負い投げをした。
そして視界の隅にまるで猫のような身のこなしで着地をする奴の姿をとらえつつ、その場から全力で逃げた。
そういえばあれだった、春は変質者が増える季節だった。




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