頭の後ろで腕を組んで、さやさやと揺れている桜の花を見つめている勘右衛門の横顔を見ながら私は悶々としていた。
この間の鉢屋三郎と勘右衛門の会話を聞いたせいかもしれないが、なんだかいつもの勘右衛門ではないような気がしたのだ。と、そこまで考えてふと気付く。
いつもの勘右衛門だって。あの風の強い日に初めて会ってから、あっという間に勘右衛門は私の生活に馴染んでしまったんだな。
そういえば初めて会った時の勘右衛門はまんまるい目に涙をいっぱいに湛えて、きらきらしてて、なんだか…

「…初めて勘右衛門と会った時、きれいだなあって思った」
「へっ!?いきなりどうしたの名前ちゃん」
「目がきらきらしててね、風が強く吹いてて、きれいだな、と思いました」
「二回も言わなくていいって!それに感想文みたいな話し方はやめてよ」

勘右衛門は口をいーっとしながら私の鼻をつまんで、私が抵抗するとすぐにぱっと手を離した。

「…でもまあ名前ちゃんにそう言ってもらえると嬉しいかな」

そうしてゆるりと嬉しそうに笑って私の頭をなでるものだから、何だかすごく気恥ずかしくなってしまって、私はぱっと立ち上がって川へと続く緩やかな斜面を駆け下りた。
だが私は自分で思っていたよりも慌てていたらしく、春の雨でぬかるんでいた土に足をとられて、そのまま泥の上へとダイブしてしまった。
ああ、日だまりだから泥があたたかい。
私がべしゃりと音を立てて倒れ込んですぐ、こちらへ駆けてきて抱き起こしてくれた勘右衛門は、真面目な顔で懐から手拭いをさっと取り出して顔を拭いてくれた。
あれ、これ前に貸した私の手拭いだ。このやろう。まあ、別に、いいんだけれど。
上級生のくせにこんなぬかるみで転んでしまったみっともなさからふてくされた顔のまま拭かれていると、勘右衛門はそれまで真顔だったくせに唐突にぶふっと噴き出して、
肩をふるわせて笑い始めた。そして小さい声で「泥おばけだ…」と呟いたのも私の耳は聞き逃さなかった。

「…ほら、勘右衛門にも泥つけてあげるよ」
「やめて、こないで、勘弁してください!」
「お前も泥おばけにしてやろうかー」

笑いながらひょいひょいと逃げる勘右衛門を追いかけ回していて気がついたが、わざわざ泥をつけるまでもなく、勘右衛門の服ももうとっくに泥まみれだ。
私を助け起こした時についてしまったのだろう。そういえばあの時、全然ためらいもせずに助けてくれたんだ。
普通泥まみれの人間を助けるときって、一瞬くらいは躊躇しないだろうか。…そう考えると、なんだか。なんだろう、胸がぎゅうっとなって、わくわくするような気持ちだ。
泥だらけなのにそんなに楽しそうに笑って。きれいとか、きれいじゃないとか、妙に気にしてるみたいだけど。


「勘右衛門!」
「ん?」
「大好き」
「え」

私の唐突な告白を聞いた勘右衛門は、普段の飄々とした態度はどこへやら、ぽかんと口を開けてその場に突っ立っていたが、
しばらくしてから顔を手で覆い、私に背を向けてしまった。近くに寄って顔を見上げても、ちっとも目を合わせてくれない。
その辺の草をちぎって耳をくすぐっても無反応だ。
しびれを切らした私は勘右衛門の服のすそをつかんで軽く引っ張ってみた。

「聞こえた?」
「…うん」
「好きだよー」
「……参りました」

そう言ってこちらを見た勘右衛門の顔は赤くなっていた。
それを見て私が笑うと、勘右衛門は笑わないでよ、と言ってむっとした顔をしていたが、やがて私たちはどちらからともなく手をつなぎ、顔を見合わせてふふっと笑った。

「名前ちゃん、顔も服も汚れちゃったね」
「こんなのは洗えばきれいになるから大丈夫!」
「…そっか。そうだよな。汚れたら洗えばいいんだ」
「そうだそうだ!」
「名前ちゃん」
「んー?」
「おれも名前ちゃんのことが大好きだよ」
「………!!」
「じゃーそろそろ帰ろっか!」


してやったりといった感じでにーっと満面の笑みを浮かべた勘右衛門のうしろでは風が強くうなり声をあげ、桜の花びらが青い空をうめつくして、
菜の花は甘い蜜のにおいをまきちらしている。
足下にはすみれの紫、遠くには柳の若緑。私たちがいるこの世界は、こんなにもきれいだ。
初めて会った時のように吹き荒れる風に背を押されながら、私たちは踊るような足取りで学園へと歩き出した。



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